~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-05)
二艘の遣唐船が船出してしまうと、都は急に火が消えたかのように静かにさびしくなった。波止場付近も人がむらがることはなくなり、都大路も眼に見えて人影は少なくなった。遣唐船が船出してからも、航海の安全を祈る鐘が各寺院から撞き出されてはいたが、心なしかそれは淋しく力ないものに聞こえた。いくら祈禱しても、祈禱の力の及びそうもない大洋の波濤の中に船は乗り出してしまったのである。鐘の音が何となく淋しく聞こえたのは、その鐘の音を耳にする度に、人々は大洋の大きな潮のうねりんp上に木の葉のように浮かんでいる二艘の船を眼に浮かべるからである。
遣唐船騒ぎが静まって何日も経たないころみん法師の病状が悪化したことが伝えられた。
旻法師は高向史玄理と共に国博士くにのはかせとして、新政の指導に当たっていた人物である。天皇は阿曇寺あずみでらの僧房に旻法師を訪ね、親しく見舞いの言葉を述べられたということで、そのことがいろいろな形でうわさされた。中には、天皇は旻法師の枕許まくらもとに坐って、せ細った手をとって、
── もし法師が今日くなるならば、自分は追いかけて、明日死ぬだろう。
と、のたまわれたというようなことまでが伝えられた。実際にはそのようなことがあったかどうかはわからなかったが、それを聞く者は、なるほどそういうこともあるかも知れないという気がした。噂としてもうまくできた噂であった。遣唐船の派遣問題を契機にして、以来幸徳天皇に鬱々うつうつとしてたのしまないところのあるのは、誰の眼にも明らかであった。今や天皇とは名計んばかりで何の実権も持っていないことは、群臣のあまねく知るところであり、群臣以上に天皇自らが知るところであった。天皇の側近と目されていた朝臣たちも、前ほど天皇を取り巻かなくなっていた。皇太子中大兄と内臣うちつおみ鎌足を通さなくては、いかなる些細ささいなことも決められなかった。
そうした立場にある幸徳天皇であってみれば、旻法師こそただ一人の味方であった。
旻法師は二年前より病床にあって、廟堂びょうどうに姿を見せることはなかったので、天皇と中大兄皇子の対立などについては全く知るところではなかったし、たとえ知っていても、そのために自分の天皇に対する態度を左右されるような人物ではなかった。従って、天皇がいかに旻法師を頼りにされ、その病状を案じておられるかは、誰にも充分うなずけることであった。
六月に百済くだら新羅しらぎの使者が貢物みつぎものを持って来朝した。半島の朝貢使の引見や接待で宮廷は忙しかったが、その騒ぎの最中に旻法師は他界した。幸徳天皇は直ちに使いを派して弔い、数多くの悔やみの品を贈った。皇族のことごとくも同様に悔みの使者を立て、その喪を弔った。何と言っても、大化の政変以来、国博士の要職にあって、新国家建設には大きい役割を果して来た人物であった。
幸徳天皇は供養くようのために、画工の狛竪部子麻呂こまのたてべのこまろ鯽魚戸直ふなとのあたい等に命じて、仏菩薩ほとけぼさつの像を何枚か描かせ、それを川原寺かわらでらで安置することにした。
そのような噂が宮中にも、ちまたにも流れている時、都中を震え上がらせるようなしらせが入って来た。遣唐船の一艘である大使高田首根麻呂たかたのおびとめまろの乗った百済様式の船の方が薩摩さつま半島の南、竹嶋たかしま付近で難船し、沈没してしまったということである。この報を伝える使者が都に入って来た時、どういうものか、この使者の一行を巷々の犬がえ立てた。追い払っても、犬どもは使者たちの周囲を駈け廻り、しまいには何十匹という野犬の大群となり、それが一行の前に廻ったり、背後についたりして吠えた。筑紫からはるばる都に上がって来た使者たちで、その風采ふうさい容貌ようぼうも異なっており、そうしたことから犬の怪しむところとなったのかも知れなかったが、このことは不審な事として、後々まで巷の語り草となった。
2021/03/23
Next