~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-06)
筑紫からの使者たちは夢にも見たことのなかった豪華な宮殿に入ると、到るところで、何回も同じことを言上しなければならなかった。そして最後に連れて行かれたのは、中大兄、大海人、鎌足等が居並んでいる、奥まったところにある大広間であった。
「船に乗っておりました者は、ただ五人を除きまして、尽く海に沈みました。五人の者は胸に板をかけて、竹嶋に流れ着きました。その中の一人門部金かどべのかねが竹でいかだをつくり、五人は神嶋しとけしまに移り、ようやくにして救助されました。六日六晩、一物も口に入れてないので、救助されました時は、半死半生の状態でございました」
使者は言ったが、誰も声を発する者はなかった。使者は平伏していたので、そこに居並んでいる人たちの顔を眼にすることはなかったが、いつまで経っても声がかからないので、おそる怖る顔を上げてみた。使者たちが広間に入って来た時は、六人か七人の人物が居並んでいたが、顔を上げた時は二人の人物しか居なかった。二人の中の一人は大海人皇子であった。
「救助された者はいつ都に上がって来るか」
その大海人皇子の質問に対して、
「何分半死半生の体でございますので、──」
使者は答えた。
「よし、退がって休養するよう。このことは誰にも漏らすな」
「は」
「漏らすと一命にかわると思え」
「は」
と言ったまま、使者たちの顔からは血の気が引いて行った。漏らすなと言っても、到るところで漏らして来ていた。筑紫から都までの長い道中、人間の顔さえ見れば、相手にかれなくても、こちらから相手に伝えていた。都に入ってからも同じだったし、宮殿内に足を踏み入れてからも、まったやたらに、自分たちがいかなる用向きの使者であるかを、相手に伝えていた。相手に伝えたればこそ、このような宮殿の奥まったところまで導き入れられたのである。
使者たちは、その夜のうちに都を発した。一刻も早く都を離れる方が安全であると思われたからである。野犬の群れは、まやこの一行を襲った。使者たちは一つに固まり、執拗しつように吠え立てる犬たちを警戒しながら、海岸沿いの道をとって西を目指した。
筑紫からの使者に一月ほど遅れて、遣唐船の生存者五名がやつれ果てた顔をして都へ姿を現した。門部金を初めとする生存者たちは、さしたる取り調べもなく、慰労の意味で金品を賜り、更に位をすすめられ、ろくを賜った。生存者たちは有難い御沙汰ごさたに接し、自分たちの運の強さをよろこんだが、しかし、悦んで許りはいられなかった。
おびただしい数の犠牲者の遺族たちに付け廻された。遺族たちはそれぞれ自分の夫や、父や、息子たちが、門部金たちと同様にどこかに流れついて生きているかも知れないという望みをてないでいた。従って、難船時の模様をうっかり語れなかった。泣かれる場合はまだしも、へたをすると殴られかねなかった。
それからまた自分たちもその運命を知っていないもう一艘の新羅様式の船についても、いかに自分たちがその船について無知であるかということを、納得するように説明しなければならなかった。この場合も、泣かれもするし、殴られかなねいことも同じであった。
併し、この五人の生存者たちが、最もうんざりしたのは、秋にはいると、また新たに遣唐船発遣のことが、巷の噂として流れ始めたことであった。
── 来年早々、こんどはもっと大がかりで遣唐船が派遣されるそうだ。
とか、
── もう水手かこが集められているそうだ。
とか
── 既に大使も副使も決まっているらしい。高向史玄理、河辺臣麻呂かわべのおみまろ薬師恵日くすしえにち宮首阿弥陀みたのおびとあみだ岡君宜おかのきみよろし ──
そういう知名な人物の名前を次から次へと挙げて行く者もあった。火のない所にけむりの立つはずはないので、全部が全部架空なこととも思えなかった。この前の時は、発航直前まで人員の構成は発表されなかったが、こんどはその反対に、初めから堂々と何でも公表して行くというところがあった。
生存者たちは、実際にまた遣唐船発遣のことがあるなら、自分たちはまた乗り込ませられるに違いないと思った。当然死すべきところを、運が強くてたすかったので、犠牲者たちの遺族に対しても、もう一度船に乗らなければならぬもののように思えた。
こういう思いが頭をもたげて来ると、五人の生存者は申し合わせたように、それぞれが血の気を失った顔をして、体全体がおこりでも起こったように、細かく震えて来るのをいかんともなし難かった。
新羅船であろうと、百済船であろうと、あの南海の大波浪だいはろうに耐え得ようとは思われなかった。生存者たちは、遭難の報は入っていないかが、もう一艘の船も自分たちが乗った船と同様の運命を持ったものと思い込んでいた。それ以外のことは考えられなかった。ただそれを口に出さなかっただけのことである。それなのに、また新しく遣唐船を唐国へ派遣しようとしている。そうした為政者たちの気持が判らなかった。
大勢の有為な生命を船に詰め込んで、大洋のあの油を流したようなどんよりとした蒼黒あおぐろい潮の中に棄てようとしている。
2021/03/23
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