~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-07)
併し、この次の遣唐船発遣について、大きな不安を感じているのは、五人の生存者たちだけではなかった。この前の時のように、廟堂はまた二つに割れていた。
大使高田首根麻呂の乗った船ははっきりしていたが、もう一艘の大使吉士長丹きしのながにの乗っていた船が無事大陸に着いたという証拠はどこにもなかった。新羅様式の船の方も、百済様式の船と同じように海底の藻屑もくずとなっているかも知れなかった。そうした状況のところへ追いかけて、もう一艘唐船を派遣するということはいかがなものであろうかという考え方があった。
── せめて、吉士長丹一行の消息が判明してから、その上で、事を計画してはいかがなものでございましょう。
多くの者がこの立場をとった。併し、中大兄皇子は、吉士長丹の船が唐土へ着こうが着くまいが、それとは無関係にもう一度遣唐船を派すべきだと考えていた。鎌足は勿論もちろんのこと大海人皇子もそれを支持していた。国のまつりごとをより新しいものに切り替えることも必要であり、それには唐国へ人を派する以外道はなかったが、それよりももっと差し迫っているのは、半島の問題であった。半島三国に対する唐の考え方も打診したかったし、そこからこの国が半島三国を押さえて行く方途もさぐりたかった。
五月派遣した遣唐船の遭難が一艘であろうと、二艘であろうと、こんどの計画はそれには左右されぬ性質のものであった。併し、この考えには三つの難点があった。一つは人命の問題、一つは限られた人材の問題、一つは莫大ばくだいな費用の問題であった。どの一つをたてにとられても、簡単には打ち破るこのの出来ぬものであった。朝臣、氏族の中にも、今度は自分に、あるいは、自分の肉親の者に白羽の矢が立つかも知れないということで、すっかり弱気になっている者も居れば、既に肉親の者を遣唐船に乗り込ませている者、こんどの遭難で失っている者も居た。そうした者たちの主張はむげに退けることは出来なかった。人材については一人でも惜しい時であるし、費用についても同様であった。民への負担は重くなるばかりである。
この前の時は、中大兄皇子と鎌足の主張が、さしたる困難もなしに通って行ったが、今度はそのようには行かなかった。遣唐船のことを議する席には、幸徳天皇は姿を見せていなかったが、併し、この前に幸徳天皇がとった立場が、大勢にって支持されている格好かっこうであった。
そうしたある日、鎌足は中大兄皇子に言った。
「現在のように主張が二つに割れていては、遣唐船を派することは難しいと思います。朝臣のすべてが、遣唐船を派することの意義を認め、いろいろな困難はあるが、それを乗り越えてやろうではないかというようにならなくいては、成功はおぼつかぬと思います。一人でも反対する者があってはなりませぬ。莫大な費用のかかる、国家の人材という人材を、危険を冒して唐国へ送る大事業であります。今度成功しなければ、この国は当分立ち上がれぬほど大きい打撃を受けましょう」
これに対して、中大兄皇子は黙っていた。鎌足が次に何を言い出すか、すぐには見当が付かなかったが、改まって鎌足がこう切り出したからには、鎌足は一つの結論を用意している筈であった。自分の考えが決まらないのに、このようなことを言い出す鎌足ではなかった。
「して ──?」
中大兄は鎌足に次の言葉を促した。
「さればでございます。朝臣にも民にも、今度の三回目の遣唐船派遣が国家の運命を賭けての事業であること、いかなる困難、危険があろうと、なおそれをさねばならぬことであること、そして政府はそれをやろうとしていること、それをはっきりと示す必要がありましょう。いい加減な事では、朝臣も民も納得いたしませぬ」
「して、それは ──?」
すると、鎌足は中大兄の耳許みみもとに顔を持って行って、何か短い言葉をひと言ささやいた。とたんに、中大兄皇子は顔色を変えた。鎌足は追いかけて言った。
「今の場合、その一事しかないと思います。今人心を一新するには、それに依るしかありませぬ。今二つに割れている主張は、否応いやおうなしに一つにまと まりましょう。あくまで遣唐船派遣に異議を唱える者は、ここに留まればよろしい」
「────」
「併し、恐らくみな自説を棄てて、われわれと行動を共にいたしましょう」
鎌足は言った。中大兄皇子はなお黙っていた。鎌足が耳許で囁いた言葉が、余りにも予期せぬことであり、容易ならぬことであったからである。主従は互に相手の顔を穴のあくほど見守っていたが、やがてどちらからともなく視線を外した。過去において、いつも重大な事を議して来た時そうであったように、この時、鎌足の献言は中大兄皇子に受け入れられるところとなったのであった。
2021/03/24
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