~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (3-01)
この年の秋は早くやって来て、早く深くなって行った。ちまたでは相変わらず遣唐船のうわさがあちこちでささやかれていたが、ある日突如として全く信じられぬ噂が流れた。噂はたちまちにして、燎原りょうげんの火のごとく拡がり、あっという間に、都中をひっくり返してしまった。遣唐船の噂どころではなかった。
── 中大兄皇子なかのおおえのみこ大和やまとへの遷都せんとを奏請し、天皇がおき入れにならなかったので、天皇おひとりを残して、皇子は百官の朝臣を引き連れて、大和へ移ることになったそうだ。
最初から噂は正確だった。風聞といったようなものではなく、役人という役人が到るところでわめき散らし、騒ぎ廻っていたので、それがそのまま巷々に散らばり、拡がって行ったのである。
役人も、兵も、民も、ただ一つのことを問題にし、それを知りたがっていた。つまり、都が大和にうつることであるか、それとも都は依然として難波津なにわづであって、仮にしばらくの間政府機関の中枢ちゅうすうが大和へ移るということなのか、それを知りたかった。遷都ということになると、難波津は忽ちにして今日までの繁栄をて、単なる港としての存在でしかなくなる。えらいことだ! 誰も彼もが顔を合せる度に、この言葉を口にした。確かにえらいことであったのである。この噂と共に、都造りはぴたりと中止された。そして仕事を辞めて、あちこちにたむろしている労務者の姿が見られた。
二、三日すると、第二の噂が流れた。
── 都はこのままここに置かれるそうだが、役所はことごとく大和へ移ってしまうらしい。都も大和に遷したいのだが、天皇がここからお移りにならないので、都を遷すことは出来ないという話しだ。
人々は難波津が依然として都であると知ってほっとしたが、役所という役所が全部引き揚げてしまったあとの都がどのようなものかということhになると、誰も見当が付かなかった。
それから更に二、三日すると、こんどはやたらにいろいろな噂が流れた。
── 何でも都遷りにたいへんな金がかかるので、そのことで、主上と皇子の間がうまく行かなくなったらしい。
── 何でも遣唐船が沈んだのは、贅沢ぜいたくな都造りが神の怒りに触れたためだということじゃ。それで、都造りを取りやめて、神の怒りが解けるまで、政府の主な者だけが大和へ移ることになったのだそうだ。
── いや、問題はこんど出す遣唐船にsるということだ。何しろ続いて三そう目を出すんだからな。大変な費用がかかる上に、唐国へ持って行く土産物だけでも、都が二つぐらい出来る額だということじゃ。それで、大和へ引き移って、金をやりくりすることになったらしい。
いろいろなことが言われたが、どの噂にも都造りに莫大ばくだいな費用を要することが取り上げられ、同時に必ずそれに遣唐船のことがからんでいた。こうした巷々の動揺とは違って、こんどのことで、一番大きい打撃を受けたものは朝臣たちであった。突然、政府の中枢機関が大和へ引き移ることになったので、その準備をするように申し渡されただけのことであった。
2021/03/26
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