~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (3-02)
そして、こうした申し渡しがあってから十日ほどって、先発隊の一団が多くの労務者を連れて難波津の都を離れて大和へ向かった。更に十日ほどして、第二団が進発した。これと前後して、大和が上を下への大混乱を呈しているということが伝えられた。突然政府機関が引き移って行くので、その混乱はさこそと思われた。
十一月の終りに、政府機関は何集団かになって、難波津の都をって行った。騎馬の集団もあれば、輿こしの集団もあり、また徒歩の長い隊列もあった。ほとんど信じられぬほどの短い期間に、政府機関を大和に移すという容易ならぬことは行われたのである。
巷の男女は毎日のように、呆然ぼうぜんとした面持おももちで、都を棄てて行く人々の列をながめた。
そして大集団の移動がなくなってからも、毎日のように十人、二十人と、都から大和へ向かう人の群れは絶えなかった。朝臣や役人たちの家族の一団もあれば、民の男女の群れもあった。こうした少人数の移動はこの年いっぱい続いた。
── 依然としてここが都だというそうだが、こう毎日毎日、都から出て行っては、今に誰も居なくなってしまうじゃないか。
都に残っていることにした男女も、その決心に動揺を来した。自分たちもまた、やがて大和へ移って行かねばならないのではないかと思った。実際に都は日々びれて行った。丘の上には無人の家ばかりが並び、都大路も、人の住まぬ家の庭も、忽ちにして雑草のはびこるところとなった。宮殿は警固の兵たちにって固められていたが、その兵たちも心なしか生気なく見えた。丘の上で人が住んでいるのは寺院だけであった。寺院だけは簡単に引越しが出来ないので、どの寺院をのぞいても僧侶そうりょ尼僧にそうたちの姿が見られた。
都ががらんとしてしまったころから木枯こがらしが吹き始めた。丘の上から下町に吹き降ろして来ることもあれば、反対に下町から丘の上へと吹き上げて行くこともあった。風はいつもびゅうびゅうと音立てて吹き、枯葉を高く舞い上げて行った。都に居残っている人たちには、変ったのは都許りでなく、風の吹き方まで変ってしまったと思った。
こうした騒ぎの中にとしは暮れ、暦は白雉はくち五年を迎えた。正月朔日ついたちの夜、都には異変があった。
初めこの異変に気付いたのは、丘の上の寺院の一つに住んでいる尼僧たちであった。
本堂でねずみの騒ぐ音がやかましいので、深夜燭台しょくだいを持って行ってみると、本堂の板敷も、廊下も、鼠の走り廻る音で埋められていた。一匹や二匹ではなかった。家という家が空家になっているので、鼠たちは食物をあさって寺院に集まって来たのかと思ったが、それにしてもどの鼠も戸外へ出て行くのが不思議に思われた。
下町で最初にこの異変に気付いたのは、正月の振舞酒に酔払って、夜遅く空家の多い通りを家へと向かっていた若者だった。若者はさっきから小さい生物が自分の足許あしもとを走り去っているのに気付いていた。初めは別に不思議に思っていなかったが、眼を足許に落とす度に、鼠の姿を見るので、急に不気味になって、そこに立ち竦んでしまった。夜目にはっきりと見ることは出来なかったが、おびただしい数の鼠が何集団かになって移動している事だけは明らかであった。
翌日、この異変は大勢の目撃者によって語られた。そして誰言うとなく、都中の鼠が大和を目指して移って行ったということになった。
「大化元年に都がこの地に遷った時も、鼠という鼠が大和からここに移って来たものじゃ。こんどは反対に鼠がここから大和に行った。おそらく今年は本式に大和に遷都があるという前触れだろう」
そんなことを言う老人もあった。年の初めから都に残っている者たちの心は落ち着かなかった。
2021/03/26
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