この白雉五年の正月を、ひとり淋しく迎えたのは幸徳天皇であった。大晦日おおみそかの夜から尼僧を内裏だいりに集め、設斎せっさいして、経を誦ずせしめたが、そうしたことでは心の安心は得られなかった。側近の者たち以外には誰も傍かたわらに侍している者はなかった。妃である間人皇后はしとのきさきも亦また、新政の首脳たちと一緒に大和に移ってしまっていたのである。
そうした幸徳天皇のお傍そばに仕える者は極く限られた者許ばかりで、その中に額田女王ぬかたのおおきみの姿が見られた。春になると、中大兄、大海人おおあま、鎌足かまたり等が公卿大夫こうけいだいぶ、百官の朝臣たちを引き連れて移って行った大和飛鳥京あすかきょうの噂が絶えず耳に入って来た。難波津が都とは名にみで、日々寂れて行く一方なのに、飛鳥京の方は反対に実質的に都としての殷盛いんせいさを日々加えて行くようであった。都造りが始められたということは聞かないが、推古朝の小墾田宮おはりたのみやも、大化の政変の舞台となった飛鳥板蓋宮いたぶきのみやもそのままの形で残されていて、旧都は依然として旧都としての体裁を保っており、多少の不便はあるにしても、政務の遂行には事欠かぬに違いなかった。久しく空っぽになっていた古い都に、また春は立ち返りつつあるのであった。
額田女王は、寂れ行く難波京にあって、大海人皇子と住む場所を異にしたことで、却かえって落ち着いた生活を持つことが出来た。同じ難波京に住んでいると、三度に一度は大海人皇子の呼び出しに応じなければならなかったし、大海人皇子の呼び出しがなくても、自分は自分で大海人皇子を意識の外に置くことは出来なかった。額田はそうした自分との闘いが嫌いやであった。が、政府機関が飛鳥へ引き移って行ったお蔭かげで、ふいに自由になり、解放された気持になることが出来た。神の声を聞く特殊な女として生れ付いている自分を取り返すことが出来た。
それでも、思いがけぬ時、大海人皇子は自分が棄てて行った都に姿を現した。大海人が姿を現すと、否応いやおうなしに額田はその逞たくましい腕に抱かれなければならなかった。逃げもしなければ、拒みもしなかった。なんのこだわりもなく大海人皇子の愛を受け、またそれが当然の返礼であるように大海人皇子に愛を与えねばならなかった。それが自分に課している愛の形であった。心は心、体は体、それぞれ別ものでなければならなかった。しかも、それが極く自然に行われねばならなかった。そうでなくては、神の声を聞く女としての自分を、自分の誇りを守ることは出来なかったのである。要するに、額田は自分が普通の女になることを固く禁じていたのである。
大海人皇子は相変わらず、額田に逢う度に自分に対する愛の証あかしを求めた。はっきりと額田が自分を愛しているということを、自分が納得できる形で知りたかったのである。
「汝なんじは永遠にから離れることは出来ぬ」
「そのようになさりたいなら、いつまでもお離しにならないことです」
「俺が離しても、汝は俺から離れられないでついて来る」
すると額田女王はこれ以上驚くことはないといった顔をして、
「本当にそんなことをお考えですか。そんなに都合よくわたくしは出来てはおりません」
「汝は俺の子供を生んでいる」
「皇子みこさまの子供は誰でも生めます。わたくしひとりが生めるものなら兎とも角かく、わたくし以外の誰でも簡単に生めます。現にもう他の方にお生ませになっていらっしゃるではありませんか」大海人皇子はぎょっとする。妃尼子娘あまこのいらつめが男子を分娩ぶんべんし、それに高市皇子たけちのみこと命名したのはついこの間のことである。
額田女王は、大海人皇子と別れた後で、自分で自分の心を確かめる。愛された悦よろこびは残っている。が、この愛された悦びというものは一体何であろうかと思う。たまたま大海人皇子に拉らつせられ、強引にこうした関係に立たせられたがために生れて来た悦びではないか。
こうした思いに捉とらわれている時、額田女王は宮廷に生きる美しい妃たちの顔を思い浮かべている。大海人皇子の方は、まだ二人の妃しか持っていないが、中大兄皇子となると、その妃の数は較くらべられぬほど多い。亡なくなった造媛みやつこのひめのあと、倭姫王やまとのひめおおきみ、宅子娘やかこのいらつめ、道君伊羅都売みちのきみいらつめ、そのほかに自分の知らぬ妃も居るに違いない。姉 鏡女王かがみのおおきみもそうした妃やちの中の一人である。何人かの妃たちが若い新政の権力者たちを取り巻いている。そうした女たちの顔を次々に額田は思い浮かべている。
そうした女たちの一人にならぬために、額田は、大海人皇子を自分にとって特殊な男性であると思うことから自分を守っている。大海人皇子は不意に現れて、額田の心と体に熱い烙印らくいんを捺おして、また帰って行く。額田はその熱い烙印と闘う。大海人皇子の跫音あしおとが聞こえなくなるまでに、額田はその火照ほてりを消さなければならぬのである。
夜光虫の潮でも浴びたように、ぎらぎらした光の滴しずくが額田の体からしたたり落ちる。体許ばかりではなくて、心からもしたたり落ちる。その光の滴だけが大海人皇子の押した烙印を消すことが出来た。二十歳の額田女王の心に不貞に似た思いが顔を覗のぞかせる時があるとすれば、こういう時なのである。
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2021/03/27 |
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