~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (3-04)
二月に二艘の遣唐船が難波津から発航することになった。このために何日か難波京は久しぶりににぎわった。寺という寺では法要が営まれ、朝に晩に鐘の音が早春の空気を震わせて聞こえた。
乗船前日、遣唐使一行は都に入って来、重者が宮中に参内さんだいし、正式の任命を受け、最後の別れのさかずきを賜った。こんどの遣唐使節団は、大体において巷の噂にその名を出していた人たちであった。去年の二つの遣唐使節団に較べると、ずっと大ものが顔をそろえており、それだけにまた首脳部には老人が多かった。遣唐押使おうしとして高向史玄理たかむくのふびとげんり、大使に河辺臣麻呂かわべのおみまろ、副使に薬師恵、判官に書直麻呂ふみのあたいまろ宮首阿弥陀みやのおびとあみだ岡君宜おかのきみよろし置始連大伯おきそめもむらじおおく人間連老はしひとのむらじおゆ田辺史鳥たなべのふびととりといった面々、これらの人たちが二船に分かれて乗った。
船出の騒ぎはこの前の時のようなことはなかった。見送りの家族たち以外は波止場には入れられず、見物人は港から遠ざけられた。従って、ひっそりとした静かな船出で、この前聞こえなかった鐘の音もはっきりと聞こえた。
中大兄皇子、大海人皇子、鎌足等もこの見送りのために当日難波京にやって来たが、船が港を出て行ってしまうと、都には留まらないで、すぐ飛鳥に引き揚げて行った。
遣唐船騒ぎが静まると、難波京は一層ひっそりとした。国中の重だった者がみな二艘の船に乗って出て行ってしまったというような、そんな淋しい静けさであった。
四月には異国の男二人、女三人が日向ひゅうがに漂着し、五月にその漂流者たちが都に入って来た。男二人、女二人は吐火羅とから国の者で、残りの女一人は舎衛しゃえの者だということであった。
吐火羅国という国がどこにあるか、舎衛というところがどこであるか、都の役人たちにはわからなかった。頭髪も、皮膚の色も、風貌ふうぼうも全く見たことのない奇妙な男女で、五人が宮中に伺候しこうする日は、寂れた都大路にも見物の男女が群れをなした。
額田女王も幸徳天皇のおそばに侍して、御前に引き出された五人の異邦人を見た。着衣はこの国のものをまとっていたが、言葉は全然解さず、ただ突立ったまま落ち着きなく視線をあちこちに投げていた。五人の異国の漂流者たちは都に二、三日滞在した後、大勢の兵に護衛されて、飛鳥へと運ばれて行った。
七月に、去年船出した遣唐船の一艘である大使吉士長丹きしのながにの船が筑紫つくしに帰り着いたというしらせが都に入った。使者はすぐに飛鳥に派せられた。本来なら都中沸き返るところであったが、そうした昂奮こうふんは見たくも見られなかった。
吉士長丹等が陸路難波京に入って来たのは、秋の初めであった。馬や輿こしを連ねた長い隊列は秋の白いを浴びて、人影の少ない寂れた都に入って来た。一行は都に入ると、直ちに宮中に参内、帰還の報告をし、それが終わると、都に留まらないで、その足で飛鳥を目指して行った。
異国の漂流者が来ても、待ちに待った遣唐使節団が帰って来ても、難波京はそのためにさしたる変化は見せなかった。もはや都であって、都でないと同様であった。幸徳天皇も、また天皇であって、天皇でないと同様であった。
しかし、都と違って、飛鳥は遣唐使節団の帰還で沸き返り、その昂奮がいろいろな噂となって伝わって来た。大使たちは唐国の天子にえつし、数々の文書や宝物を持ち帰って来たということで、それぞれ昇進の沙汰さたがあった。大使の小山上しょうせんじょう吉士長丹は少花下しょうけげを授けられ、副使の少乙上吉士駒しょうおつじょうきしのこまは小山上を授けられた。吉士長丹は姓まで賜って呉氏を名乗ることになったということであった。そして遣唐使節団に対する慰労の宴席は毎日のように設けられているらしく、そうしたことが華やかに噂となって流れて来た。
2021/03/27
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