斉明天皇の元年の十月から、飛鳥の都造りは始められた。小墾田に新しく宮殿を造る工事が大々的に始められた。こんどの宮殿の屋根は瓦葺かわらぶきにするということで、そのことが巷の噂となった。深山幽谷からは材木が運ばれ、大勢の労務者が民から徴せられて、それに当たった。併し、宮殿の建材として選ぶものは、どういうものか次々に枯れたり、朽ちただれたりした。そうしたことで、宮殿の増築工事は一時中止になった。
このことも不吉と言えば不吉であったが、もう一つ嫌なことが重なった。それは現在斉明天皇が住まっている板蓋宮いたぶきのみやが出火のため焼けたことである。放火に依よるものであるとする見方が広く行われた。新宮殿の造築工事について、巷ちまたには非難の声が起こっていたので、放火と言う見方も一概に否定できぬものであった。いずれにせよ、新政の首脳者たちにとっては思い出深い板蓋宮の殿宇でんうは灰燼かいじんに帰してしまったのである。斉明天皇は板蓋宮の焼失に依って隣接地にある川原宮かわらのみやに遷うつった。
併し、この年には悪いこと計ばかりがあったわけではない。高句麗こうくり、百済くだら、新羅しらぎの使者たちが貢物みつぎものを献じるために、飛鳥の都にやって来た。中でも百済からの使者は百余人からなる一団で、これまでにも、これだけ多人数の朝貢使節団が来たことは少なかった。またこの年、北の蝦夷えぞ、西の隼人はやとが衆を率いて服属して来た。そして蝦夷、隼人の重だった者は、都までやって来て、それぞれ貢物を献じた。都はこうした事件でその時々に賑にぎわいを見せた。
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2021/03/29 |
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