~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (1-05)
額田は宮殿を焼いている焔を、まだ半造りになっている築山つきやまの向こうからながめていた。材木のはじける音が絶え間なしに聞こえており、現場とはかなり隔たっていたが、それでも焔の火照ほてりでほおも額も熱いくらいだった。足許あしもとの地面は明るくなったり、暗くなったりしている。焔の舌が風のためにこちらに流れて来ると、あたりは急に明るくなり、植込みの樹木の葉の一枚一枚までがくっきりと見えた。が、いつもそれは一瞬のことで、すぐしれに代わってやみが置かれた。
「額田!」
その声で、額田は一歩退がった。有間皇子ありまのみこの声であった。
「額田!」
「はい、皇子さまでいらっしゃいますか」
「そう」
「いつ、ここにお出でになりました」
「さっきからここに立っている」
「存じ上げず、失礼をいたしました」
額田は言った。その時またあたりが明るくなった。額田は思わず周囲を見廻した。
若い皇子が植込みの中に体を半分埋めるようにして立っている。辺りは幾度か明るくなり、幾度か暗くなった。その間、二人は言葉を出さず宮殿を焼く紅い焔の躍りを見守っていた。怪しい美しさであった。
難波なにわでは火が出るようなことはなかったが、ここでは度々火が出る」
ふいに有間皇子は言った。低い声で言ったのに違いなかったが、それははっきりと額田の耳に届いた。額田ははっとした。有間皇子が言ったことは、確かにそんp通りであったが、誰も口に出してはならぬことであった。ことに有間皇子の口から出ると、それは別の意味を持って受け取られかななかった。
若し、有間皇子がもう一度、同じような言葉を口から出したら、たとえ二人だけの席であるにしても、額田は相手をたしなめるつもりであった。
が、若い皇子は再びいかなる言葉も口から出さなかった。この頃になって、木のはじける音に混じって、消火に当たっている男たちの叫びが遠く、近く聞こえて来た。
「では、失礼いたします。皇子さまも、お引き取り遊ばしますように」
額田は言って、そこを離れた。額田は火事場を中心にして、それを遠く取り巻くようにして歩いて行った。そのうちに、あたりに人の動きが感じられるようになった。何人か集まって焔を見上げている集団もあれば、そこらをやたらに走り廻っている者たちの姿も眼についた。
宮殿の大棟おおむねが崩れ落ちる音が響き渡り、火の粉が夜空一面に引き上げられた時、額田は足を停めた。そして、またしばらく焔の舌のめらめらとした怪しい躍りを見守っていた。
「額田!」
「は!」
額田は一歩退いた。こんどは有間皇子の声ではなかった。
「難波では火が出るようなことがなかったが、ここでは度々火が出る」
瞬間、額田は全身の血が凍りつくような思いに打たれた。幻聴だと思いたかったが、幻聴ではなかった。ゆっくりと、重い声で、相手ははっきりと言ったのである。さっき有間皇子が口に出したことを、そっくりそのまま、同じ言葉で言ったのである。
額田は身動きが出来ないで、息を詰め、体を固くして、そこに立っていた。どれだけの時間が過ぎたかわからなかった。あるいは、何程の時間も過ぎず、相手が言葉を出すと、ほとんどそれと同時のことであったかも知れない。額田は自分の手が相手の手に握られるのを感じた。額田は手を相手に任せたまま、身を固くしていた。平常の額田なら、
── 失礼いたします。
どう言って、相手の手から自分の手を抜き取ったに違いなかったが、今はそれが出来なかった。有間皇子が言ったと同じ事を相手からぶつけられており、気が動転どうてんしている最中だった。
「あの ──」
と言ったまま、額田は自分でもどうしていいか判らなかった。満身の力をめて振りほどこうとしても、相手の手に収められている手はどうにもならぬような気がした。すると、そうした額田の気持を知ったのか、相手は低い声を出して笑うと、それと同時に額田の手を離し、
「早々に引き取るよう」
その声で、額田はしこを離れた。背にまた低い笑い声が聞こえた。額田は相手が誰であるかを知っていた。中大兄皇子であるに違いなかった。額田は相手の顔を確かめてはいなかったが、中大兄以外の人であろうはずはなかった。
2021/03/30
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