~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-01)
斉明天皇の三年の春ほど、額田女王ぬかたのおおきみにとって、慌しく思われた春はなかった。都は相変わらず宮殿造り、街造りの騒がしさに明け暮れ、春を迎える楽しさも、春を送るさびしさもなかった。春の陽光はただいたずらに白く、うつろであった。
何度思った事であろう。── ああ、何事かがやって来る! 確かに何事かはやって来ようとしていた。それが額田にはわかった。神の声が聞こえるように、その何事かの跫音あしおとが聞こえた。
額田は新宮殿の焼ける夜、有間皇子ありまのみこの口から出た言葉と、全く同じ言葉が中大兄皇子なかのおおえのみこの口から出たことを思うと、その度に絶望的な思いに突き落とされた。
── 難波なにわでは火が出るようなことはなかったが、ここでは度々火が出る。
絶対に他人に聞かれてはならぬ言葉を、迂闊うかつにも有間皇子は口走ってしまったのであり、それを人もあろうに、中大兄皇子に聞かれてしまったのである。自分と有間皇子以外には誰も居ないと思っていたあの築山の向こうのやみの中には、中大兄皇子が立っていたのである。それ以外考えようはなかった。
難波では宮殿が焼けるというような事件はなかったが、飛鳥あすかではそうした不祥事が度々あると口に出して言うことは、有間皇子の場合においいては政治への批判に他ならなかった。有間皇子はそのようなつもりで口にしたのではなかったかも知れないが、そのように受け取られても仕方ない言葉であり、立場であった。それをたまたま自分の耳に入れた当の新政の責任者である中大兄皇子は、どのような気持ちで聞いたであろうか。どう考えても、心平らかであろうはずはなかった。
しかも不気味に思われる事は、中大兄皇子が、それを心の中にしまっておかないで、自分と言う第三者に聞かせるという態度をとったことである。それは有間皇子への挑戦ちょうせんとも、復讐ふくしゅうの宣言とも、額田には受け取れた。そうでなくてさえ、現在中大兄に皇子にとって、し自分に対抗する鬱陶うっとうしい存在があるとすれば、それは有間皇子以外の人ではなかった。幸徳天皇に対する中大兄皇子たちの仕打ちを、御子として有間皇子がいかに思っているかとなると、中大兄にとって決して気持のいい相手ではなかった。しかも誰からも聡明怜悧そうめいれいりな若き皇子として見られている。一般の新政への批判は、当然その反対のものとなって皇位継承の資格を持っている有間皇子へ集まって行くであろう。実際に既に、そのような声は再三ならず額田の耳にも入っているのである。
新宮を焼く赤いほのお、ゆらゆらと揺れ動く焔の舌、そして中大兄皇子の口から出た不気味な言葉、一体、あの夜には何が行われたというのか。ここまで来て、額田は不意に眩暈めまいに似たものを感ずる。中大兄に取られた手の感触を思い出すからである。振りほどこうとしても絶対に振りほどけない盤石ばんじゃくのような重さ。
── ああ!
額田は思わず四辺あたりを見廻す。自分の口から出た低い叫びを誰にも聞かれなかったことでほっとする。有間皇子をついと邪慳じゃけんに向こうへ押し倒した手が、その同じ手がこんどは間髪を容れず自分の方へ伸びて来る。ぐいと手繰たぐり寄せられる。
── ああ!
こんどの叫びは自分の心の内部に向けられる。額田は必死に逃れようとする。が、しかし、絶対に逃れられないことだけが判る。このあたりで、額田はわれに返って、夢とも現実うつつとも判らぬ白昼夢の世界から立ち上がる。このように、いつも有間皇子に関しての思いは、途中から別のものに変って行った。一つは神の声を聞く女としての有間皇子の持つ運命への予感であり、一つは同様に自分自身の持つ運命への予感であった。二つは全く別の関連のないものであったが、その間に中大兄皇子が坐っている。
額田は白昼夢の世界からめると、とうから立ち上がって、春の陽光の散っている庭へ出る。庭を歩き出すと、額田は神の声を聞く女としての誇りを取り返す。いかなる運命が訪れて来ようと、それがなんであろう。自分の何ものをもかえることは出来ないのだ。この世に中大兄皇子の権力に対抗できる者はないであろう。若し中大兄が自分を求めるなら、大海人皇子おおあまのみことしても拒むことは出来ないかも知れぬ。併し、そうした中大兄の権力でさえ、自分だけではどうすることも出来ないのだ。神の声を聞く女として生れ付いている自分が、どうして人間の声を聞くことが出来よう。自分にとって、中大兄皇子が何であろう。大海人皇子がもう一人出来るだけのことである。
額田はゆっくりと歩む。額田の心からは有間皇子も、中大兄も、大海人も消える。
額田女王は本来の額田女王に立ち返る。ああ、何ものかを欲しいと思う。まさしく何ものかである。額田にもその何ものかの正体がはっきりしているわけではない。ただ判っていることは、その中に心も体も全部投入し、大きくたぎり立つ思いの底から天地を揺り動かすように詠い上げて行くことの出来るものである。よろこびは春の光のように、悲しみは潮のうねりのように詠われねばならぬだろう。ああ、そのようなものを欲しいと思う。
額田のこうした思いははげしい恋情に似ていた。ただその恋情が、大海人にとっても、中大兄にとっても残念なことには、この人の世のものに向けられたものではないことであった。額田が熱っぽい思いで恋い恋うているものは、国の運命とか、民族の叫びとか、そうした故人を超えた大きなものに関したものであった。ってみれば、それは神の悦びであり、神の悲しみであった。
2021/04/01
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