~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-02)
この年の夏に、吐火羅とから国の男二人と女四人が筑紫つくしに漂着した。最初海見嶋あまみのしま(奄美あまみ大島)に打ち上げられ、それから更に筑紫へと漂い流されて来た者たちであった。この漂流者が召されて都に姿を現したのは秋の初めであった。そして七月十五日の盂蘭盆会うらぼんえの折、吐火羅人たちは召されて酒食を賜った。宴席の設けられたのはつきの木のある広場であった。この広場は以前から種々の催しの行われる場所になっており、外国の使節たちがきょうされるのは大抵この場所であった。
この異国の漂流者の賜餐しざんの折、小さい事件があった。一列になった吐火羅の人たちの姿が遠くに見えて来た時、額田は天皇に侍して会場に入った。朝臣たちがそれぞれ所定の席に就いた時は、漂流者たちは会場の入口にその異様な風体ふうていを現していた。一眼見た限りでは、男も女も区別出来なかった。いずれも気おくれしておどどしているように見えた。
「男が二人、女が四人だということだから、先頭の二人が男であろう」
額田はかたわらで誰かがささやくのを聞いた。
「いや、あとについて来る方が男であろう」
そんな声も聞こえた。が、そのいずれが正しいか、額田にも見当が付かなかった。
やがて漂流者たちが玉座の方に向かった一列に並んだ時、額田はおやと思った。真ん中に並んでいるのは有間皇子ではないかと思った。はっきりとその一人の人物の服装だけが異なっていた。漂流者たちは六人の筈であったが、そこに並んでいるのは七人であり、しかもその一人は、どう見ても有間皇子である。
七人の整列者はいっせいに頭を下げた。その時、既に事件は始まっていた。何人かの者がその方に走って行くのが見え、やがて、その者たちの手で整列者の一人は列外に連れ出されようとした。額田は異様な思いで、その小さい混乱を見ていた。有間皇子に違いなかった。皇子は連れ出そうとする者たちの手を払い、何か叫んでいた。連れ出そうとする者たちも相手が皇子であるので手荒いことも出来かねるといった格好かっこうで、近寄ったり離れたりしている。
額田が次に見たものは、更に異様な光景であった。有間皇子は漂流者の列から飛び出したとみると、いきなり地面に両手をついて逆立ちしたのであった。逆立ちはうまかった。真っ直ぐに両脚を突き上げたままで、手を脚の代わりに使ってこちらに移動して来つつあった。もうこうなると、誰の眼にも事件の性質ははっきりして見えた。やがて有間皇子は何人かの者の手で取り押さえられ、場外に連れ出されて行った。
有間皇子が狂った! あちこちで囁かれた。それから何事もなかったように賜餐のことは運ばれて行ったが、そこに居るすべての者は有間皇子のことに心を奪われていた、珍しい見ものも、それほど人気はなかった。吐火羅人の男女がいかなる皮膚の色をしていようが、有間皇子が狂ったという事件ほどの関心は集められなかった。
2021/04/02
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