~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-03)
こうしたことがあってから、有間皇子はめったに自分の館から外に出ることはなかった。たまに夕刻などに館の周囲を歩くことがあったが、それはもはや常人の姿ではなかった。風にでも吹き押されて行くように、妙に重量感のない足取りでふらふらと歩いて行き、時々立ち停まると、怪しい笑い声を口から出した。
有間皇子の発狂は誰の眼にも痛々しく見えた。幼い時から余りにも聡明であったので、とうとうこのような事になってしまったと言う者もあれば、気の毒ではあるが、まあ、これで有間皇子の身の上も安全になったと見る者もあった。
額田は、併し、有間皇子が本当に狂っているとは信じられなかった。狂人を装うことに依って、中大兄の関心を自分から外そうとしているに違いないと思われた。自分の身に危害が及ぶことを避けるには、この方法しかないと、有間皇子は思ったのである。額田はそうした若い皇子が痛ましく哀れに思えた。併し、額田は世の人の全部を欺こうとも、ただ一人欺かれぬ人物があると思った。中大兄である。新政の権力者が、どうしてこのようなことで自分の敵を許すであろうか。
額田は狂ってからの有間皇子に二回会った。一回は傍に人が居たので、額田は広い宮城の敷地を突切って田身嶺たむのみねふもとの方へ歩いて行く皇子のあとについて行った。宮城の内部とは思えぬほどはぎの咲きこぼれている原野が続き、その果てが雑木の林に続いている。は西に傾いてはいたがまだ夕方という時刻ではなく、弱い秋の陽があたりに散っていた。
「皇子さま」
額田が声をかけると、有間皇子は背後を振り向いた。髪は額に乱れており、衣服の着方も普通ではなかった。
「お狂いになられ、おいたわしいことでございます」
額田が言うと、
「きっ、きっ、きっ」
と、有間皇子は奇声を発し、あとはおびえたようにあとずさりして行った。
「お狂いになられてから、おせになられました」
すると、有間皇子は自分のほおに両手を当て、それから自分の手首を眼の前にかざした。額田が痩せたと言ったので、本当に痩せているかどうかあらためる仕種しぐさであった。併し、その仕種は、やはり常人のそれではなかった。
牟婁むろ(紀州白浜)温泉いでゆはお体によろしいのではないでしょうか。同じようにお狂いになっているにしても、牟婁は海浜の温泉でございます。そこの方がお気持ちが休まりましょう」
額田は言った。すると、有間皇子は再びきっ、きっ、と奇声を発し、また怯えた表情をとると、額田の横をくぐり抜けて、いま来た道をもどって行った。額田は追わなかった。
── やはり狂っている!
額田は思った。
── 狂ってはいるが、どんなに狂っても、なお狂っていることを信じない人間が一人居る。
額田は有間皇子が駈けて行った原野を暗い気持ちで歩いて行った。有間皇子が本当に狂っていることを何とかして中大兄に信じさせたかったが、それはいかなる方法をもつてしても不可能なことに思えた。
2021/04/03
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