~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-04)
有間皇子が狂った年の秋、新羅しらぎに行っていた沙門智達しゃもんちだち間人連御はしとのむらじみうまや厩、依網連稚子よさみのむらじわくご等が帰って来た。沙門智達は新羅の使者の案内で入唐にっとうするつもりであったが、新羅の方でこちらの要求に応じなかったので、目的を果さず帰国するのむなきに到ったのであった。新羅のこのような態度は、今度が初めてのことではなかったが、飛鳥の朝廷にとっては何とも言えず不快な事件であった。この上は、新羅を経ないで直接入唐する以外仕方がなかった。
沙門智達等の帰還に前後して、今度は百済くだらに行っていた阿曇連頰垂あずみのむらじつらたり津臣儡僂つのおみくつま等が帰国し、駱駝らくだ一頭、驢馬うさぎうま二頭を土産として献上した。駱駝と驢馬はものものしい警戒のうちに、都大路を王宮へと引かれて行った。当日は珍奇な動物を見ようとする男女が、朝早くから駱駝の通路となる道の両側に列を作った。ちまたの人々は、このような珍しい動物が海を渡って都に入って来たことに不気味なものを感じた。いいことの前兆であるか、悪い事の前触れであるか、すぐには決めかねた。駱駝に対していろいろなことが言われている最中、突然岩見いわみのくに国に白狐びやっこが現れたという報せが入って来た。白狐が現れることは昔から上瑞じょうずいとされていたので、白狐のおかげで、駱駝も上瑞のおすそわけにあずかる結果になった。巷では、白狐が現れたり、駱駝がやって来たりするくらいだから、来る年は何かいいことがあるに違いないとうわさし合った。
斉明さいめい天皇の四年の四月、左大臣巨勢臣德太こせのおみとこだがみまかった。大化五年四月に大臣に任じて以来、中大兄、鎌足等をたすけて常に帷幄いあくに参じていたが、六十六歳で他界したのであった。白狐や駱駝が現れたにもかかわらず、正月早々、巷の男女は長い葬列が寒風の吹きすさむ都大路に続くのを見なければならなかった。
この年の冬は長かった。三月に入っても雪が舞う日があった。春がそこまで来ているのに、いっこうに寒さの衰えぬ三月の初めに、額田ぬかたは久しぶりで有間皇子と顔を合わせた。有間皇子は去年の秋以来ずっと、狂った心と体を牟婁の湯に養っていたが、湯池の結果がよく、精神も肉体も一応常態に復したということで再び都に帰って来たのであった。そもそも牟婁の湯へ行くことを狂心の皇子に勧めたのは額田だったので、額田としては狂気の去った美貌びぼうの若い皇子の姿を見ることはうれしかった。
有間皇子は天皇にえつして、おのが病患をいやした紀の国の気候、風土をたたえて、
「ただあの国の美しい自然に触れただけで、私は病気をすっかり癒すことが出来ました」
と、言った。女帝はそれを聞いて大いに心を動かし、自分もまた、今年はそこへ行って、老いた体を養うだろうとおおせになった。
しかし、額田は有間皇子から狂気が去ったことをよろこぶと共に、また再び言い知れぬ不安に突き落とされないわけには行かなかった。同じ不気味なものが皇子を目指しているにしろ、まだ狂気であるということで、多少ともその到来を先に押しっているところがあったが、正気に戻ったとなると、そういうわけには行かなかった。
ある時、額田が有間皇子と二人だけになった時、皇子は言った。
「一度狂気になってしまったから、もう自分の一生は廃人である。世の片隅かたすみで歌でも作って過ごす以外、いかなる生き方もない」
額田は静かに首を左右に振った。本当にこの若い皇子は、そのようなことを考えているのであろうかと思った。なるほど一度発狂してしまった以上、いつまた発狂しないものでもなかった。当然そういう見方は行われるはずであった。だから、もはや自分に対する世間の期待というものは考えることは出来ない。あらゆる競争の圏外へ追いやれててしまっている。有間皇子はそう考えているに違いなかった。併し、額田はそうは思わなかった。あるいは世間一般はそのような見方をするかも知れなかった。が、一方には、そうした見方をしない者もある筈であった。少なくとも一人はあるに違いなかった。
有間皇子は額田が首を左右に振ったことの意味がせぬらしく、
「自分はただ一生を歌だけを造って生きて行けばいいのだ」
と、重ねて言った。実際に現在の有間皇子は歌を作るということ以外に、この世で何も望んでいないに違いなかった。権力の座など、凡そこの皇子からは遠いものである。ただ怜悧聡明れいりそうめいな生れ付きと、先帝の御子であるということと、そして新政に対する世人の批判が、兎角とかく、この皇子に照明を当てる結果になり勝ちになるだけのことである。
2021/04/03
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