~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-05)
額田は今度もまた、首を左右に振らねばならなかった。なかなかどうして、事態はそんな生易なまやさしいものではない。歌を作って生きて行く、ただそれだけのことでさえ難しいということを、相手に知らせたかったのである。
そうした額田の仕種を、有間皇子はどうとったのか、ふいに表情を変えると、むしろ晴れ晴れとした顔になって、
「牟婁では毎日のように海を見て暮らした。海を見ていると、いつも歌を作りたくなった。が、とうとう額田には見せるようなものは一作も出来なかった。それが残念だ」
そんなことを言った。
額田が有間皇子と会話らしい会話を交わしたのは、これ一回だけだった。と言うのは、それから数日すると再び有間皇子が狂ったということが伝えられた。こんどはやかたに閉じこもったまま、一歩も外に出ず、人の顔さえ見ればおびえて逃げかくれしているということだった。額田は有間皇子の狂心が真実であるかいな か見当が付かなかった。狂気を装っているようにも思え、また本当のようにも思えた。
額田は一度有間皇子をその館に訪ねた。皇子は額田の顔を見ると、
「海が光る、海が光る」
と口走り、あたかもその光から自分をおおいでもするように、両手を前にかざして、怯えた表情で後ずさりして行った。そして、
「海が光る、海が光る」
同じことを繰り返しながら、部屋の隅から隅へと逃げ廻った。額田から逃げ廻っているのではなく、強烈な光線でも感じているのか、それを避けんとでもするかのように、絶えずその位置を狂人独特の動作で移動しているのであった。
額田にはやはり、有間皇子が狂心を装っているとは見えなかった。表情も仕種も、どう見ても正常人のそれではなかった。
2021/04/03
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