~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (2-06)
四月になると、阿倍臣比羅夫あべのひらふおびただしい数の軍船を率いて、蝦夷えぞ征討の途に就いたということが、朝野のうわさとなって流れた。阿倍氏は代々異族征討に武勲をてている家柄いえがらで、その租は崇神すじん天皇の命を受けて北陸、東海を征討した大彦命おおひのみことである。大彦命の後裔こうえいで阿倍氏が最もあらわれ代々東北に勢力を張り、比羅夫の時に到って、蝦夷鎮圧の出陣の回数は数えることが出来ないと言われていた。その阿倍臣比羅夫の出征には大きい期待がかけられていた。飛鳥あすかの寺々では、戦捷せんしょうを祈願して法会ほうえが営まれたり、鐘が鳴らされたりした。併し、何と言っても戦闘は遠隔の地のことであり、都の男女にはさして身近な問題には感じられなかった。
五月に皇孫建王たけるのみこが八歳にしてこうじた。中大兄皇子と蘇我石川麻呂そがのいしかわまろの娘である造媛みやつこひめの間に出来た皇子であり、不幸なことに唖であった。造媛は父石川麻呂自刃じじんのあと、悲歎ひたんの余り他界していたので、建王は二人の姉大田皇女おおたのひめみこ鸕野皇女うののひめみこと共に、祖母に当たる斉明女帝のもとで育てられていたのである。今城谷いまきのたにの上に殯屋もがりやがたてられ、遺骸はそこに収められた。斉明天皇は不幸な生れ付きの皇孫を特に寵愛ちょうあいしていたので、その死に当たっての悲歎は大きかった。はたで見る眼も痛ましい程であった。
斉明天皇は群臣にみことのりして、自分の死後には、皇孫の霊を己がみささぎに合わせほうむるように命じた。額田が老女帝に眼を見張るような思いを持ったのは、皇孫に死に対する悲歎を何首かの歌に表現した時であった。
今城いまきなる 小丘おむれが上に 雲だにも しるしく立たば 何か歎かむ  
幼き可憐かれんな皇子が眠っている今城の丘の上に、せめて雲なりとはっきりと立てば、それを愛する者のかたみとして心を慰め、現在のように明けても暮れても、歎き悲しみはしないでありましょうのに。
ししつなぐ川辺の 若草の 若くありきと はなくに
手負いのいのししに比すべき老いたわが身の生き甲斐がいであった可憐な孫よ。川辺の若草ほども若いとは思っていなかったのに、それなのに、どうしてこの世から居なくなってしまったのか。
飛鳥あすかみなぎらひつつ 行く水の あひだも無くも 思ほゆるかも
飛鳥川は今日もまんまんと水をたたえて流れている。流れ、流れ、片時も休むことはない。自分がき可憐な孫を思うのも、丁度その流れの休むことのなきに似ている。朝から晩まで、もう再び眼にすることのなき愛する者のことばかり思い続けている。
額田はこうした女帝に仕えていた。額田は天皇の皇孫を思う歌で、今まで気付かなかった心の内部のものを大きく揺り動かされるような思いを持った。これはいうまでもなく人間と人間との関係から生み出された歌であった。老女帝と皇孫という、一組の人間と人間との関係から生み出された歌であった。一人の人間の最も人間らしい心の叫びであった。
2021/04/04
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