~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (3-01)
斉明 さいめい 天皇の四年の秋は、明るい事 ばか りが多かった。東北の出征軍からの捷報に朝廷は沸き立ったが、そのあおりを食った 格好 かっこう ちまた また 明るかった。遠い国々で今まで降服しなかった 蕃族 ばんぞく ことごと く斬り従えられ、そのためこれからはちょっと考えられぬくらいの おびただ しい 貢物 みつぎもの が入って来る。もう しばら くの辛抱である。やがて自分たちの租は薄くなり、暮しは見違えるほど楽になる。巷の男女はそんなことを うわさ し合った。
もう暫くの辛抱、もう暫くの辛抱、── これが民たちの合言葉であった。誰も彼もがそんなことを言い合うということは、現在はまだ耐え忍ばねばならぬ苦しい状態にあるということであった。東北の遠征には遠国から兵が徴兵されており、都附近の民たちには関係がなかったが、都造り、宮殿造りは依然として続けられていて、その方面の仕事は、この地方の民たちが受け持たねばならぬことであった。都造りも、宮殿造りも、今はゆっくりと進められていた。前のように きちが いじみたところはなくなり、労務者たちも半数ほどに減っていたが、その代わり彼等が受け持たなければならぬ仕事は、想像の出来ぬほどの大きさの規模のものに拡がっていた。宮殿の 一棟 ひとむね ようや く出来上がったと思うと、それは王宮の極一部のさして重要な建物ではないということであった。一体いかなる宮殿が計画されているのか、民の男女にも、労務者たちにも わか らなかった。
もう少しの辛抱と思って自分を励ましていたのは、民たち計りではなかった、 中大兄皇子 なかのおおえのみこ も鎌足も 大海人皇子 おおあまのみこ も同様であった。民の生活とおうものを犠牲にし、その不平不満は一切聞かないことにして、都造りも 蝦夷 えぞ 平定も、平行して強引に遂行していたのである。
七月四日に蝦夷二百人余りが大挙して都に入って来た。新たな皇城に服した 新府 しんぷ の蝦夷の首領たちで、国も権力者に 挨拶 あいさつ し、貢物を ててまつ るための入京であった。
蝦夷たちの入京に先立って、遠征軍の 総帥 そうすい 阿倍臣比羅夫 あべのおみひらふ が都に入って来るというので、巷はその噂で持ちきった。 いかなる戦闘が行われたかは知るよしもなかったが、それにしても。赫々かくかくたる戦捷の武勲に輝いた将軍であった・その比羅夫が都に入って来るということは、民たちにも大きい事件であった。
額田女王ぬかたのおおきみも、この噂を聞いて明るい気持を持った。言うまでもなく、比羅夫は阿倍氏を名乗っていることにっても明らかなように、先年病没びょうぼつした重臣阿倍倉梯麻呂あべのくらはしまろと同じ一族の流れをむ者であった。有間皇子ありまのみこの母小足媛おたらしひめは阿部倉梯麻呂のむすめであり、そうしたところから考えても、有間皇子にとっては阿倍氏出身のこの高名な武人は、当然なこととして有力なうしろだてであり、事実そのように誰からも見られていた。しかも、倉梯麻呂きあと、阿部一族には有力者はなく、比羅夫がただ一人の皇子の後援者たるの資格を持つ人物といってよかった。
額田は阿倍比羅夫が凱旋がいせんして都に入って来たら、何より先に、狂心の若い皇子のことを相談しようと思っていた。狂心の皇子の措置が比羅夫なら講じられるはずであった。正常の皇子だったら比羅夫の力をもつてしてもその生命を守りおおせ得るとは考えられなかったが、何しろ相手は狂っているのである。この今は全く無力な孤独の皇子を彼に託し、せめてもう一度正常人に立ち返らせ、皇子自身が望んでいるように、どこかの片隅かたすみで歌を作ることをただ一つの仕事として後半生を送らせたかった。
額田は阿倍比羅夫の都入りの日を待っていた。今か、今かと待っていたのである。
しかし、いっこうに噂ばかりで、民たちや額田女王の期待を裏切って、いつまでっても、比羅夫は都には姿を見せなかった。そして、比羅夫の率いる戦捷舞台に代わって、涼風が渡り始めている都へ、二百人の異様な風体ふうていの蝦夷たちが入って来たのであった。
風は渡っていたが真夏同様の暑い日であった。一人でも異様な見ものであるところへ、蝦夷二百人の集団となると、都の人たちには化物の集まりとしか見えなかった。
都はたちまちにして蝦夷の入京騒ぎで大混乱を呈した。老幼男女を問わず、一人残らずが都大路を走り廻った。一つのつじで蝦夷を見物し、見物し終わると、さらに先き廻りして見物するためにけ出すといった具合で、都は終日ざわざわしていた。
2021/04/12
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