額田は飛ぶような気持で、狂心の皇子が閉じ籠っている館やかたを目指した。額田は長く続いている疎林そりんの中を半ば駈かけるようにして歩いた。この日も思い出したように強い風が吹いていた。が、もう木には、風がちぎり取るべき一枚の葉も残されてはいなかった。風はただ地上に散っている葉を捲き上げている許ばかりであった。それでもその地上から捲き上げられた葉は宙高く舞い上がり、恰あたかも生物のようにどこまでも風に乗って高く低く舞って行った。額田はもうすぐ疎林を脱けようとするところで誰何すいかされた。
「何者か」
額田は足を停とめた。数人のものものしく武装した兵が駈け寄って来た。
「有間皇子さまのお館へ」
額田が言うと、
「何?!”
憎々しげな面構つらがまえのが、
「怪しい奴やつ、ひっとらえろ」
「退さがりゃ」
額田は一歩後ずさりして叫んだ。その声が、凛りんとした響きを持っていたので兵たちは思わずひるんだ。そこへ上役らしいのが駈けて来た。この方は額田が何者であるかを知っているらしく、
「皇子のお館へは、何人たりともお入れすることは出来ませぬ」
と、多少穏やかに言った」
「どうしてでございましょう」
皇子御謀叛のことを御存じございませぬか」
「存じませぬ」
すると、知らぬとは迂闊うかつ千万とでも言うような顔をして、
「昨夜皇子御謀叛のことが発覚いたしました。とくとあれを御覧なさいますよう」
相手は言った。相手に言われるまでもなく、既に額田は相手が見せようというものを、己が眼の中に収めていた。疎林をすかして皇子の館の一部が見えていたが、その周囲を夥おびただしい数の兵たちが取り囲んでいる。何十本かの旗差物はたざしものが風にはためき、何十本かの長槍ちょうそうの穂先が陽ひに冷たく光っている。
今額田が駈けて来た方から、また新しく武装した兵の一団がやって来た。それが通り抜けて行くと、また次の一団がやって来る。この分で行くと、荒々しい兵たちによって、有間皇子の小さい館は文字通り十重とえ二十重はたえに取り囲まれてしまうだろう。
額田は呆然ぼうぜんとして、そこに立ち竦すくんでいた。額田が長く懐いだき持っていた不吉な予感は、いま現実の事件となって眼の前で現れていた。それにしても、謀叛とひと口に言っても、事件はいかなる性質のもので、いかにして起こったのであろうか。額田はそれを知りたかった。額田は帰路も半ば駈けるようにして歩いた。その額田の頭の中を、大海人皇子の映像が閃ひらめいたり、消えたりした。大海人皇子だけには少しは無理な事でも頼めると思ったが、その大海人皇子は今は紀の国に行っていて、都には居なかった。
絶望が額田をくたくたにしていた。曾かつて狂心の皇子が歩いたように、そんなふらふらした歩き方で、額田女王は時々襲って来る烈しい風の中を歩いていた。
── ああ、天地が泣いている。
額田は思った。まさしく額田には風の音は天地の慟哭どうこくのように聞こえた。
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2021/04/13 |
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