~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (3-04)
有間皇子ありまのみこ謀叛むほんなるものの正体は、その日のうちに王宮内のすべての人に知れ渡った。事件の内容が何から何までわかったというわけではなかったが、額田も大勢の朝臣や女官の口から、その大要を知ることが出来た。
何でも、ある人物が狂った皇子に、
── 天皇のまつりごとには三つのあやまりがあります。一つは大きな倉庫を建てて、そこに民から徴収した財物を集めている事、二つは大きな運河を作り、そのために民を苦しめる事、三つは船で石を運び、その石で丘を作っている事。以上三つのあやまりがある以上、これが失政でなくて何でありましょう。
こう言うと、それまで狂っていた皇子がふいに表情を改めて、正気の人の顔になり、
── 自分は十九歳になっている。今こそ事を挙げ、兵を用うべき時である。
と言ったということであった。そして皇子は狂っていたのではなく、狂心を装っていたのだ。そんなことが口から口へと伝えられた。
「それなら、そうした事を皇子さまに話しかけた人物と言うのは誰でありましょう」
額田は自分にそれを伝えた者にいてみた。
「そこまでは存じませぬ」
相手は答えた。
「そんな曖昧あいまいなことで、有間皇子御謀叛と騒ぎ立てているのでしょうか。狂心の皇子さまであればこそ、そのような事をお口走りになったかも判らない。。それより大体、そのような事を言い触らしている者が怪しい」
額田は顔見知りの朝臣や女官にうと、誰彼の見境なく同じ質問を相手に浴びせた。誰も皇子に怪しい言葉をささやきかけた人物については知っていなかったし、またそのようなことを言い触らしている人物についても知らなかった。
が、そのうちに、もう少し立ち入ったうわさが流れた。これもうそか本当か判らなかったが、多少具体的な内容を持つものであった。何でも皇子は謀叛を決心すると、何人かの仲間を語らい、その仲間の一人の家の高楼で、兵を挙げる相談をした。それが昨夜のことである。が、事前にすべては露見し、昨夜のうちに、有間皇子の館は兵の囲むところとなったと言うのである。
またこういう者もあった。
── 何でも、夕べの中に兵を挙げるはずのところ、皇子が腕をおかけになっていた脇息きょうそくがふいに壊れた。それを不吉な事として、皇子は挙兵を他日に期されたということだ。し脇息が壊れなかったら、今頃は国は大変な事になっている。有間皇子の軍勢が牟婁むろ行宮かりみやめがけて押し寄せていたことだろう。
こうした噂から判るただ一つのことは、事件がいかなるものであるにせよ、かく、それが昨夜のうちに、有間皇子は謀叛人、反逆者はんぎゃくしゃとしての烙印らくいんを額にされてしまったのである。
あわただしく一日は暮れた。夜になると、更に具体的な内容を持った噂が流れた。それは皇子と一緒に謀叛を企てた者たちが既に逮捕されているということであった。守君大石もりのきみおおいわ坂合部連薬さかいべのむらじくすり塩屋連鯯しおやのむらじこのしろ、そうした人々の名が挙げられた。こうなると、額田女王も皇子を中心にした叛逆事件なるものが、根も葉もない架空なものであると信じ続けることは出来なかった。やはり謀叛と呼び得るような事件が、あるいは少なくとも謀叛と間違って受け取られても仕方ないような事件が、実際にあることはあったのである。逮捕を伝えられている人々は、有間皇子側近の者ばかりである。
2021/04/13
Next