~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
有 間 皇 子 (3-05)
額田はその夜。何回無駄むだとは知りながらも、有間皇子の館を訪ねようと思ったことであろう。しかし、十重二重にそこが兵たちの囲むところとなっていることを思うと。その度に思い留まり、その度に大きな不安な思いに襲われた。額田が恐ろしい噂の渦中かちゅうにある有間皇子について、ただ一つ祈念していることは、どうか皇子が今も狂い続けていてくれるようにということであった。いかなることを口走ろうと、狂人なら、その責任は免れるかも知れない。若し噂のように狂人でなかったなら、── それは思ってみただけでもおそろしい事であった。その場合はもはやいかなることがあろうと、いま皇子に襲いかかろうとしているどす黒い雲から、身をかわすすべはなかった。有間皇子は反逆者の烙印を捺され、どこともなく引き立てられて行ってしまうだろう。
翌日になると、また新しい噂が流れた。それは、昨日のうちに、事件の顛末てんまつを牟婁の天皇に奏する使者が派せられており、留守官の蘇我赤兄そがのあかえはそれに対する天皇からの指図を待って、いっさいを取り計らおうとしているということであった。いっさいを取り計らうということがいかなることか判らなかったが、それが有間皇子に対する措置を意味するものであることは明らかであった。有間皇子を牟婁に引き立てて行くなり、あるいはろうに投じるなり、そのようなことに対する牟婁の行宮からの指令を、蘇我赤兄は待っているのであった。
それから、この日、もう一つはっきりしたことは、有間皇子の館を取り囲んでいるのは物部朴井連鮪もののべのえのいのむらじしびの配下の兵たちで、それに、岡本宮を造っている労務者たちも、いまは宮造りの仕事を放擲ほうてきし、いずれも武装して加わっているということであった。たった一人の有間皇子が住まっている館を取り囲むのに何と仰々しい仕打ちであろうかと、額田は思った。
併し、かに愁眉しゅうびを開いたのは、まだ兵のただ一人もが、皇子の館には足を踏み入れていないということであった。が、これも考えてみれば当然な事であった。かりそめにも有間皇子は先帝の御子である。たとえいかような事件が起こったにせよ、上からの指令なしに、指一本でも触れることは出来ない筈であった。
それにしても、有間皇子はいま館の中にあって、いかに過ごしていることであろうか。狂っているのなら、何事が行われようとしているのか判ろう筈はなく、
「海が光る、海が光る」
今も同じ言葉を口誦くちずさみながら、部屋のすみから隅へと、あの狂人独特の仕種しぐさで何者かにおびえながら、後ずさりを続けているのであろうか。が、若し正気なら!? 額田には正気の皇子を想像することはつらかった。どのような思いで、昨日から今日への時間を過ごしているのであろうか。
この日もまた慌しく夕暮を迎えた。いつ時間がったのかと思うほど、ほとんど信じられぬ速さで一日は終わった。夜が来た。額田はこの夜は疲れ切って正体なく眠った。暁方あけがた目覚めた。額田は床から起き上がると、え返った頭の中で、有間皇子が正気であろうと、狂心であろうと、もはや彼を襲おうとしているものから逃れることは出来ないであろうと思った。その事を信じて、疑わない気持だった。風もなく、絶え入りそうな静かな夜であったが、その静かな夜も今は間もなく明けようとしていた。
額田は眼をつむっていた。白いものが鵞毛がもうのように舞っている。戸外を見たわけではなかったが、額田には何となくそのような戸外の様が眼に映って来たのである。いささかの重さも持たぬ白い片々である。それが舞っている。落ちるといった落ち方ではなく、ただ舞っているのである。鵞毛のように舞っているとしか形容は出来ない。
ときほどして、額田が館の廻廊に出て見たものは、彼女がまぶた に描いていたものと全く同じだった。白いものが舞い、身の凍りそうな寒い朝であった。額田はこの時、有間皇子に関する恐れや、悲しみや、不安を、そっと自分から取り てたのである。衣類でも脱ぐように、それを自分から取り去ったのである。悲運の皇子は人間の力では、いかんともしがたいと思った。有間皇子という聡明そうめい美貌びぼうな若い貴人が、どうしても持たなければならぬ運命であったのである。
それから二日間、額田は部屋にこもって過ごした。二日目の夕刻、牟婁からの使者が到着した。それに関する噂が王宮内の人たちにやかましく取沙汰とりざたされているに違いなかったが、額田はそれを聞くために、部屋を出て行くことはなかった。
2021/04/13
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