~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (1-01)
有間皇子ありまのみこの事件が起こったのは斉明さいめい天皇の四年の十一月初めであったが、年が改まると、すぐ天皇初め中大兄皇子なかのおおえのみこ大海人皇子おおあまのみこ鎌足かまたり等政府の首脳陣は紀の国から都に帰って来た。紀の国にみゆきしたのは十月であったから、都を留守にしたのは三ヶ月程度であったが、そのわず かの間に、将来の国の禍のもとにならぬとも限らなかった一人の若い貴人の存在は抹殺まっさつされたしまったのであった。こうなると、有間皇子の変を起すために紀の国への行幸であると受け取られても仕方がなかった。実際にまたではそのようなうわさが行われた。
額田女王ぬかたのおおきみには中大兄も大海人も鎌足も、何を考えているかわからぬ不気味な存在に思われた。それぞれの人物が、有間皇子の事件があった事など全く知らないかのように、有間皇子のことは片言隻句へんげんせっくも口に出さなかった。そのような皇子があったことなど全く忘れているような格好かっこうであった。
額田女王には斉明天皇だけが別人に見えた。老女帝もまた有間皇子のことは口から出さなかったが、この方は有間皇子のことどころではなかったのである。愛孫建王たけるのみこの死の悲しみが、その死から日がつにつれて一層深いものになっているようであった。紀の国へ幸する以前より傷心は深く、見るも痛々しいほど面窶おもやつれれしていた。
額田は、有間皇子の事件が中大兄一人にって起されたものとは思わなかった。大海人皇子も鎌足もこの事件に関係しているに違いなかった。しかし、何と言っても、この事件の中心に坐っているのは中大兄皇子であった。すべては中大兄皇子に依って引き起こされ、皇子が期待したように、悲劇の筋書は運ばれていったのである。額田女王は中大兄皇子に顔を合わせると、いつも面を伏せるようにした。気のせいか、中大兄の自分を見る眼は違っていた。
── なんじだけは事件の真相を知っている。おれはいつか汝にこの事あるを宣言したはずである。よもやあの宮殿の火災の夜のことを忘れてはいまい。有間皇子の死はあの時、既に決まっていたのだ。
中大兄皇子の眼はそのように言っているように感じられる。
── なぜ面を伏せるのだ。怖いのか。汝は事件が何人によって、引き起こされたかを知っている。そうしたことを、汝が知っていることを、この中大兄は知っている。中大兄皇子の眼はまたそのようにも言っている。どこかに威嚇的いかくてきなものさえある。汝は事の真相を知っているのだ、そのままにしていくことは出来ない。
併し、額田女王が中大兄の眼を避けて面を伏せるのは、ただそれだけのことではない。もう一つの全く質の異なった威嚇があった。
── この中大兄は宣言したことは必ず実行に移すのだ。有間皇子の事件は、あの火災の夜宣言したことである。あの夜もう一つ宣言したことがある。汝はよもやそのことを忘れてはいまいな。
中大兄の眼はまたそのようにも言っている。額田は中大兄の眼を額に感ずると、いつも軽い眩暈めまいに似た悪寒おかんに襲われる。有間皇子をった同じ手は、いつでも自分の方へ伸びて来ようとしている。ただその時の来るのを待って、今は伸びて来ないだけのことである。その時と言うのははっきりしている。額田が面を伏せないで相手の面におのが視線を当てた時である。
し自分が面を上げたら、── 時に額田の心にそのような思いがはしることがある。
すると全身の血がいっせいに引いて行くような思いに打たれる。激怒した大海人皇子の顔が立ち現れて来る。感情がたかぶると前後のことを忘れかねない大海人皇子は、さっと立ち上がって、身をひらくだろう。手は佩刀はいとうにかかり、そのらんらんと燃えている眼は中大兄皇子をうかがっている。だから、額田はいつも絶対に上げてはならぬ面を深く伏せて、中大兄皇子の前を静かに通り抜けて行く。
2021/04/14
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