~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (1-02)
額田が中大兄皇子という新政第一の権力者に対して持っている思いはすこぶる複雑なものであった。自分でも、それがいかなるものであは、はっきりと、自分に言い聞かせることは出来なかった。殺生与奪の権を握っている相手に対して当然おそれもあれば憎しみもあった。有間皇子を死に追いやったことに対する怒りもあった。そしてまた、大海人皇子との関係を知りながらなお自分にいどんで来る相手の不敵さに対して、もう絶対にどこへも逃げることは出来ないだろうといった畏怖いふの思いもあった。そして、そうしたいっさいの思いを持った上で、奇妙な事ではあるが、額田は新政の権力者の自信に満ちた重々しい跫音あしおとを聞くことはいやではなかったのである。宮殿内のどこに居ても、額田には中大兄の廊下を踏んで来る跫音は、はっきりとそれと知ることが出来た。
こうした中大兄の額田に対する態度は、当の額田が感じているだけではなかった。
有間皇子の事件から四月ほど経ったころのことであるが、ある時、大海人皇子は額田に言った。
「いつか中大兄に皇子は俺に汝を所望して来るだろう」
それに対して、額田は返事をしないで、黙って大海人皇子の顔を見守っていた。すると、
「そういう場合はどうしる?」
相手はいた。
「まさか、そのようなことがあろうとは存じませぬ」
「なければ結構、あった場合のことだ」
「───」
すると、大海人皇子は大きく笑って、
「中大兄皇子が汝に眼をかけていることは、誰知らぬ者はない。宮廷内でももっぱらの噂だ。中大兄は自分が手に入れたいと思ったものは、必ず手に入れる。いまかつてそうしないことはなかった」
「では、そのような場合、あなたこそどうなさるのでしょう」
額田は訊いた。
「中大兄に汝を所望された場合のことは、俺はその時のことにしている。その時になってみないと判らぬ。素直に譲ってやるか、断るか」
「お断りになった場合は ──」
額田は、大海人が中大兄の申し出を断ったら、どのようなことになるか、それを訊いたのであった。
「どのようなことになると言うのか。どのようなことにもなるまい。中大兄に皇子と俺は一生仲違なかたがいすることも出来なければ、離れる事も出来ない。鎌足があわてて二人の仲をうまく取り成してくれるだろう」
大海人皇子は笑いながら言った。そして、
「それより、汝の気持はどうか」
「額田はあなたのおおせに従う以外仕方ないではありませんか」
「譲ることにしたら、よろこんで譲られて行くか」
「悦びはいたしません」
「悦ばないにしても、譲ると言ったら、譲られて行くか」
「さあ」
額田は大海人皇子の顔を見てはっとした。怖ろしい形相ぎょうそうをしていた。到底素直に相手に譲るというような言葉を出す男の顔ではなかった。
「あなたからも身を引き、中大兄皇子さまのお招きも断るでしょう」
額田は言った。すると、大海人皇子は黙って考えていたが、
「汝がそれがいいと思うなら、そうするのもいいであろう」
いつになく沈んだ言い方であった。額田はこの時、自分がそう遠くない将来、、そのようなことを考えなければならぬ運命に見舞われるであろうと思った。あるいは既に、二人の皇子の間には、何かそれらしい話が持ち上がっているのかも知れなかった。その時の大海人皇子には、何か額田にそのようなものを感じさせるものがあった。
2021/04/16
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