~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (1-03)
この年の春は、額田女王は各地に行幸になる天皇のお供をして、忙しく日を贈った。
三月一日には、吉野の行宮かりみやおいて百官の朝臣を集めて豊作を祝う大酒宴が開かれた。このため二月の終りから三月の初めにかけて、都から吉野へ通じている街道は、そこを往来する人々に依って、時ならぬにぎわいを呈した。前年の豊作は事実であり、それが国全体を明るくしていたが、民は必ずしもその恩恵に浴しているわけではなかった。租税も課税も重く、男も女も力役に徴せられることのは変わりはなかったが、それでもいつかは自分たちの暮らし向きが楽になるに違いないという望みがあった。数年前にくらべると、街道を往来する朝臣たちの動き一つにも力が充実している感じで、それが民の心にも反映していた。
豊作を祝う儀式はこれまでになく厳かに行われ、そのあとの酒宴の盛んさもこれまでにないものであった。大化の政変以来、苦しいつらいことばかりが続いて来たが、いまようやく、新政に依る新しいみのりが現れ始めたかの印象を、そこに出席しているすべての人々に与えた。額田だけが多少異なった感慨で、この大酒宴の席に臨んだ。有間皇子の変から四月ほどしか経っていなかったので、有間皇子がこの世から姿を消すのを待って、この豊作の祝いが行われたかのような思いを持った。確かに今は、新政の首脳者たちをおびやかすいかなる暗い蔭もなかった。それからもう一人、この席に列すべき人物で。ここに居ない者があった。北辺征討の武将として盛名日々に上がっている阿倍比羅夫あべのひらふであった。彼は依然として、遠い北方の戦線にあった。阿倍比羅夫ももう有間皇子の変を知らない筈はなかった。どのような思いで、都に起こった事件を聞いたことであろうか。
豊作の祝いの大酒宴が終わると、天皇は直ちに近江おうみの湖畔の行宮へ行幸になった。
すぐ近くに見える比良山ひらやまは頂にまだ雪を持っていた。吉野からここへ移られたその移られ方には、多少異常な桃が感じられた。一日に大饗宴きょうえんがあり、三日にはは近江を目指して吉野を発ったのである。額田には老女帝の心の内部のものが手に取るように判っていた。豊作の祝いも、大饗宴も、これほど現在の老女帝の気持から遠いものはなかったのである。一切の事は新政の首脳者たちが采配さいはいを振ってやっていることで、老女帝としては明けても暮れても、建王たけるのみこおもかげを忘れることは出来なかったのである。そしてふいに百官が集まって混雑している賑やかな場所を離れて、湖畔の小さい行宮でお過ごしになりたくなったのである。百官の朝臣を集めての大饗宴より、比良の山の望める琵琶湖畔びわこはんの静かな明け暮れの方が現在の老女帝の心にはぴったりしたものであったのである。
湖畔の行宮に移ってから数日すると、先年都に上って来て、そのまま都に居ついている異国の漂流者たちがやって来た。吐火羅とから国の男二人、女二人、それに吐火羅人のいる一人の妻になっている舎衛しゃえの女であった。この漂流者たちは白雉はくち五年四月に日向ひゅうがに漂着して都へ送られて来た者たちで、いつか五年の歳月をこの国で過ごしていた。勿論もちろん、漂流者たちは女帝のお召しでやって来たのであるが、こうした異国人たちを相手にして、自分の心を慰めていられる天皇が、額田には悲しく思われた。
併し、そうした老女帝もいつまでも近江の行宮に滞在しているわけには行かなかった。都では天皇を必要とする行事が、次から次へと失意の老女帝を待っていた。十七日には陸奥みちのく蝦夷えぞたちを引見し、彼等に酒食を賜ることがあり、それまでにはどうしても都にもどらねばならなかったのである。
このようにして、額田は天皇に侍してこの年の春をあわただしく過ごした。春が終り、夏がやって来ると、また北方の戦闘のことが巷の噂として流れた。阿倍比羅夫が再び船帥一百八十そうを率いて蝦夷国を討つということであった。阿倍比羅夫はこれまで一度も都へ凱旋がいせんして来ていなかった。凱旋の噂はあったが、その度に噂だけで終わっていた。こんどの場合も、新しい作戦を展開するために、阿倍フラフはやって来るに違いないとか、すでに都への途上にあるとか伝えられていたが、それは単なる噂でしかなかった。蝦夷征討の武将は、戦線に留まったまま、新しい作戦の命を拝したのであった。
2021/04/16
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