~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (1-04)
六月に陸奥の戦線の状況が都に伝えられて来た。阿倍比羅夫は軍を率いて陸奥の奥深く分け入ったが、戦闘らしい戦闘は行われず、齶田あきた(秋田)淳代ぬしろ(能代のしろ)二郡の蝦夷二百四十一人、そのとりこ三十一人、津軽郡の蝦夷百十二人、その虜四人、胆振鉏いぶりさえの蝦夷二十人、──全部を一ヵ所に集めて宣撫せんぶのために大饗宴を開いたということであった。戦捷せんしょうしらせよりこうした報せの方が好ましかった。以前は蝦夷のはげしい抵抗にって、よほどの犠牲を払わなければ北方へ進出することは望めなかったが、今は年々歳々事情は好転していた。これもそれだけ皇威が辺境地帯にまで及び始めたということを示すものであった。
翌七月、朝廷は合部連石布さかいべのむらじおわしきを大使、津守連吉祥つもりのむらじきさを副使として、唐国へ派した。それぞれが別々の船に乗った。二船が派せられたのであるから遣唐使節団は相当の人数で構成されていたに違いなかったが、どういうものか人数は発表にならなかった。それから大使、副使の任命も急であれば、難波津なにわづからの発航もまた急であった。
遣唐使節団の派遣は新政下になってから、これで三回目であった。最初は白雉四年の吉士長丹きしのながに吉士駒きしのこま等で、これは翌白雉五年帰国していた。が、同じ時派せられた第二船は途中で遭難している。第二回は白雉五年二月の高向史玄理たかむくのふびとげんり等であるが、この方は二船とも斉明理さいめい天皇の一年八月に帰国し、今度の遣唐使派遣は、それ以後五年目のことであった。遣唐船の派遣で先進国唐の学問文物を大々的に輸入することは出来たが、それに対する犠牲も亦決して小さくはなかった。新政下第一の智識人であった高向史玄理は唐土でしゅつしていたし、将来を嘱望されていた学問僧恵妙えみょう、覚勝等も唐土で死んでいた。また智聡ちそう、智国、義通等の若い才能はいずれも海で相果てていた。
それはそれとして、今度の遣唐使派遣で、いつもと異なっていることは、一行の中に陸奥の蝦夷の男女二人が加えられてあることであった。唐国の天子に見せるための措置であったが、蝦夷の男女は渡海をおそれて、最後まで乗船を拒んだと、そのようなことが噂された。
遣唐船が難波津から出航したのは七月三日であったが、同じ月の十五日には都の寺々で盂蘭盆経うらぼんきょうせられた。七世の父母の恩に報いるための法要で、勅命にるもので、その法要は盛大に行われた。朝臣も民と共に業を休んで巷にあふれ、ために都は時ならぬ賑わいを呈した。これまでの盂蘭盆は朝廷だけのものであったが、今年はそれに巷の男女も組み入れられた格好かっこうであった。これまた新政の稔の一つの現れとして、民の男女には好感をもつて迎えられた。
2021/04/17
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