~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (1-06)
「中大兄皇子さまがあなたに対して、そのようなことをお口にだされたのは ──」
ここで多少言葉の調子を改めて、
「お口に出されてもいいだけのことがあったからでございましょう」
額田は言った。と、果たして大海人皇子は瞬間表情を固くした。既に中大兄皇子から二人の姫を妃として与えられていた。額田はこれまでに一度も口に出したことはなかったが、チクリと、針の一本ぐらいは刺しておいても罰は当たらないであろうという気持だった。
「辞退出来るものと出来ないものがある」
大海人皇子が言うと、
「御自分からお求めになったのでございましょう」
額田は言って、低く声を出して笑った。
「ばかを言え」
「御辞退遊ばしたかったら、御辞退遊ばせばよろしかったのに」
「だから、辞退出来る事と出来ぬ事があると言っている」
「何と都合のいいお言い分でございましょう」
ここで言葉を切って、
「致し方ございませんわ、いただくものは戴いてあるんですから」
「もう、よろしい」
こうなると、明らかに大海人皇子の負けであった。明らかに負けであっても、負けであるからと言って、ここで放免してやらねばならぬということはなかった。どうせ針を刺してしまったのである。一本刺そうと、二本刺そうと同じ事であった。
「一人の姫を戴き、それからまたのう一人の姫を戴き ──」
「もう、よろしい」
「お二人まで御無心なさったんですもの、お引き替えに一人ぐらいお出しにならなくては」
「───」
「ああ、何というつらいことでございましょう。わたくしはまるで、兄の皇子さまへの、お返しの品ではございませぬか」
「───」
「── 俺の知ったことではない」
額田は大海人皇子の口調を真似まねて言って、それから更に続けた。
「それほど執心な女とあれば、おれは額田と別れてやろう。別れたあと、どのようにしようと、俺の知ったことではない」
「───」
「俺の知ったことではないとおっしゃるのは一体どういうことでございましょうか」
「俺はそんなことは言っていない」
「それなら、額田はどのようにしたらよろしいのでございましょう」
「俺は断れないが、汝なら断れる」
「あなたがお断りになれぬものを、どうしてわたくしがお断り出来ましょう」
「なんと!」
いきなり大海人皇子は立ち上がった。今にも佩刀はいとうに手でもかけかねない形相だった。ここで、額田はふいに身をかわして、
「御心配遊ばさなくても、額田は当分、どこへも参りませぬ。きよらかに身を守っておりましょう」
それから、
さびしいことですけど」
「淋しい?!」
淋しいに決まっているではありませぬか。あなたは大勢の妃たちといつも一緒にいらっしゃる。尼子娘あまこのいらつめ大田皇女おおたのひめみこ鸕野皇うののひめみこ女、それからまだいらっしゃる。それなのに、わたくしの方は一人でございます」
「淋しいのは判っている。だからどうしようと言うのだ」
「どうもいたしませぬ。きよく身を守っております」
「当てにならぬな」
大海人皇子は言った。実際に当てにならぬと思った。子供まで作っておきながら、それでもまだ自分のものに出来ぬ女を、自分からはなして一人にする。一人になっていてくれればいいが、一人になっていないかも知れない。当人が信用出来ぬばかりでなく、おおかみが襲いかかって行く。
大海人皇子はこの日ほど、額田が再び自分のもとへ帰って来ないということを強く感じたことはなかった。二人がどのような言葉のやりとりをしても、所詮しょせんそれはその場限りのもので、この日の二人の間に置かれたものは別離以外の何ものでもなかった。中大兄の権力の前にはいかなるものも無力であった。大海人もそれを知っており、額田もまたそれを知っていたのである。
2021/04/17
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