額田女王が中大兄皇子も妃に迎えられるらしいという噂は、一時到るところで、いろいろな人に囁かれたが、そのうち次第にその噂は下火になって行った。併し、この噂のお蔭かげで、額田は朝臣たちからも、女官たちからも特別な眼で見られるようになり、中大兄との噂は立ち消えになっても、額田を見る人々の特殊な眼だけは、そのままあとに残った。人々の口から噂が消えたのは、いくら噂をしても、額田女王の身の上にはいかなることも起こらなかったからである。
秋が深まった頃ころ、天皇は出雲国造いずものくにのみやつこに大きい神社を造るようにお命じになったということが、噂となって額田の耳にも入った。この年の夏の盂蘭盆会うらぼんえはいつになく盛んに行われたが、盂蘭盆会のことと言い、今度の出雲へ大きい社を建てることと言い、額田には、それが皇孫建王たけるのみこの死と無関係には思われなかった。老女帝は神にも、仏にも、建王の冥福めいふくを祈らざるを得ない心境にあったのである。いまや斉明天皇が考えたり思いついたるするいかなることも、建王の死と無関係ではなかった。在りし日の愛くるしい稚おさない建王の姿が、斉明天皇を動かしていると言ってよかった。老女帝は亡なき建王のためとあらば、いかなることでも為なすに違いなかった。
多少、異様にすら思われた盂蘭盆会の盛んさも、恐らく誰か側近の者が囁いた言葉を取り上げた結果であったろうし、出雲国の大きい社やしろの造営も、また誰かの献言に依るものであったろうと思われた。併し、当然のこととして、こうした老女帝への批判も行われずにはいなかった。
── 出雲では社造りで大変らしい。国を挙げてひっくり返っているそうだ。何でも網を造るための葛くずを採るだけでも大変な作業らしいが、せっかく採って来た葛も、片っ端から狐きつねに噛かみ切られてしまうということだ。網を作っても作っても、狐に噛み切られてしまう。大声では言えないが役丁たちは、不思議な事もあるものだと言い合っているそうだ。
話す者も、聞く者も、こうしたことを話し合っている時は、例外なく、二、三年前の”狂心たわぶれごころの都造り”のことを思い浮かべていた。曾かつてこの都で行われた正気の沙汰とは思われぬ大工事が、所を変え、現在は遠い出雲の国で行われているのだと思った。また、このようなことも噂された。
── これも大きな声では言えぬ事だが、出雲では狗いぬが死人の腎うでをくらい、その骨をこんど新しく造っているお社に置いて行ったそうだ。
tだそれだけのことであったが、意味ありげに囁かれると不気味であった。こうしたことは、明らかに土木事業を起すことの好きな老女帝に対する批判であり、民の非難が遠い出雲国のできごとという形を取って現れているに違いなかった。
額田女王に対する関心が、遠い出雲の社造りに対する関心に変った頃、額田は中大兄皇子と一回だけ短い会話を交わしたことがあった。額田が新しく造られている宮城の奥まった庭に植えられた萩はぎの株が小さい花をつけtことを聞いて、それを見に行った時のことである。月の明るい夜であった。額田は侍女を一人伴っていた。なるほど広い庭の周辺を縁取るように植えられてある何十かの萩の株は、それぞれが花をつけ、咲き乱れている感じであった。昼のような明るい月光のもとに置くと、その小さい萩の花の群れは寧むしろある華やかさで見えた。天地を埋めるように何百」何千と思われる秋虫のすだく声が聞こえており、その中に萩の花の群れだけがひっそりと咲いている。
その時、額田は向こうから一人の男がやって来るのを知った。遠くからでも、それが中大兄皇子であることが判わかった。額田は侍女を促して、そこから立ち去ろうとしたが、その前に相手から声がかかった。
「月が美しいな」
額田は頭を垂れ、中大兄を迎える姿勢をとらねばならなかった。侍女だけが退さがって行った。
「今宵こよいの月は美しいであろうと思ったが、案に違たがわず、美しい月が出た」
「は」
額田は頭を垂れていた。
「月光のもとで見る萩の花は美しい」
「───」
「額田の手も美しく見える」
額田は前に重ねている己おのが手が、相手に見られていることを知った。額田は長い衣服の袖そででそれを包んだ」
「汝の顔も美しく見える」
顔の方は覆おおうことは出来なかった。せいぜい一層深く面を伏せるぐらいのことしか出来なかった。
「大海人皇子と別れて、今年の秋はさぞ淋しいことであろう」
額田は ”は”とも ”いいえ”とも言うことは出来なかった。返事が出来ないためか、自分でも知らぬ間に面が上がった。中大兄皇子は少し仰ぐように月の方へ顔を向けていた。
「淋しさが癒いえるまで一年待とう」
額田は面を下げた。体が小刻みに震えていた。
「一年経たったら、その美しい手も、その美しい顔も貰う」
火のように熱い烙印らくいんが、中大兄皇子の言葉と一緒に、額田の顔に、頬に、項に、頭髪に捺おされて行った。月光の冷たい光の中で、そこだけ焼けるように熱かった。
全く一方的な宣言だった。それだけ言うと、中大兄皇子は額田から離れて行った。
月が美しいので、そこらをそぞろ歩きし、その途中額田に会ったので、ひと言ふた言言葉をかけ、そしてそのまま向こうへ歩き去って行ったという、そんな離れ方であった。
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2021/04/19 |
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