~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (2-01)
年改まると、斉明さいめい天皇の六年である。この年の正月に、高句麗こうくりから使者乙相賀取文おつそうがすもん等百余人が筑紫つくしに到着した。このことはずっと遅れて都に報じられたが、百人を越す使者団の来朝は珍しいことであった。
三月になると、また北辺征討の血生臭いうわさが流れた。朝廷では阿倍比羅夫あべのひらふに、船帥二百そうを率いて、粛慎国みしはせのくにを討たしめる命を下したということであった。粛慎国がいかなる国か都では誰も知らなかった。蝦夷えぞの一種族であるか、あるいは蝦夷とは全く異種の種族であるか、そしてまたそれが蝦夷と同じ地方に蟠居ばんきょうしているのか、あるいはそれよりずっと北方に国を形成しているのか、そういうことに正しい智識を持っている者はなかった。し、そうしたことに多少でも智識を持っている者があるとすれば、極わずかの新政の首脳者たちであったが、彼等もまた、それが皇威に服さぬ蕃族ばんぞくであるという以外、殆ど委しい事は知らなかった。北方に出征している阿倍比羅夫からのしらせで、粛慎国の存在を知り、そしてそれが敵対行動をとっていることを知ると、
── 粛慎国討つべし。
そういう声が廟堂びょうどうに起こり、それが一座の承認を得て、北方へ大和やまと朝廷の命令として伝えられて行くというのが実情であるというほかなかった。
五月八日に、正月筑紫に来着した高句麗の使者団が難波なにわに入って来た。使者たちは外国の使者たちのために設けられている難波館なにわのむろつみで休養し、都からお召しを待った上で、そこをって大和へ向かうはずであった。
新政の首脳者たちはすぐには外国使節団を引見するようなことはしなかった。すべて唐国のとっている外国使節団の遇し方を真似まねていた。
高句麗の使者百余人が難波津にやって来た同じ五月に、仁王般若経にんのうはんにゃきょう講設の勅令が下った。全国で百ヵ所が選ばれそこに講壇が設けられることになった。こうしたことも新政のみのりの一つの現れで、唐国で行われていることをならっての試みではあったが、国家としてようやくかかることに意を用うる余裕が生れて来たという見方も出来た。また、政府は水時計を造り、これにって民に時刻を知らせることにした。これは中大兄皇子がかねてから考えていたことで、それが漸く実行に移されることになったのである。寺々はそのために朝夕鐘を鳴らさねばならなかった。これも唐の都で行われていたことを倣ったものであるが、それにしても時を告げる鐘の音が都の民の生活を明るくし、それを多少でも秩序あるものにしたことは確かであった。
同じ月に粛慎人四十七人が送られて来た。阿倍比羅夫に依って征討され、皇威に服した粛慎人たちであった。朝廷ではさっそく遠路はるばる送られて来た夷人えびすたちのために饗宴きょうえんを張った。都の民たちは、この前蝦夷人と同じような顔を持ち、同じような衣服を身に着けちぇいた。顔面を濃いひげおおっているところだけが異なっていた。
この粛慎人の都入りで、ちまたではまた阿倍比羅夫についての噂が盛んになった。おびただしい数の蝦夷人が送られて来り、粛慎人が献じられて来たりするのは、ことごとく阿倍比羅夫の武勲に依るもであるに違いなかった。
2021/04/21
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