~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (2-03)
夏から秋の初めにかけて、額田女王ぬかたのおおきみは二回、大海人皇子おおあまのみこの誘いを受けた。まが二人が特別な関係に入らぬ前、大海人皇子はよく人を介して額田の心を誘ったが、こんどもまたそのような誘い方をした。そうしたところは大胆であった。
大胆だと言えば、中大兄に皇子なかのおおえのみこたも大胆であり、大海人皇子も大胆であった。同じ母を持つ兄弟であるから、同じように大胆であっていっこうに不思議はなかったが、二人の兄弟の皇子からいどまれてみると、額田にはそういうところがやはり不安に思われた。
中大兄皇子は弟と関係を持っていることを承知の上で、額田を弟からり上げようとしているのであり、大海人皇子は大海人皇子で、一応形の上では兄に譲っておこながら、今度は自分の方でこっそり奪い返そうとしている。どちらも同じような大胆さを持っていたが、両方を並べてみると、額田は中大兄に皇子の方へ好感を盛らざるを得なかった。中大兄の方が、同じような事をやっているにしても、どこか堂々としていた。お前の女をくれと、真っ向から弟に膝詰ひざづめ談判しているようなところがあり、それで話が決まってしまうと、あとは額田を立てるのか、大海人皇子を立てるのか知らないが、かく、一年だけは額田をそっとしておいてやろうと言うのである。
額田にはそうした中大兄のやり方が小憎らしく思われた。お前はおれのものだ、だが一年だけは待ってやる。待って貰っても、待って貰わなくても、権力者の腕の中に手繰たぐり寄せられる結果は同じようなものであったが、そう言われてみると、額田は少なくとも自分が人間らしい扱いを受けているような気持になった。右から左へ手渡しされる物品ではなかった。
そして奇妙なことだが、そっとして置かれる一年が、額田には特別なものになった。
決して中大兄に召される日を待っているつもりはなかったが、春が過ぎ、また夏が来るのが、そして夏が過ぎ、また秋が廻って来るのが、早いようにも、反対に遅いようにも感じられた。やがてはぎの咲く季節はやって来るだろう。あのたくさんの萩の株がどても小さい花をこぼれるようにつけたら、── 額田は時々そうした自分の思いに気付いてはっとする。その時は、権力がどうすることも出来ぬ力で覆いかぶさって来る。
額田は頭を上げる。ふいに、思いは全く違ったものになる。さあ、何でも差し上げましょう。でも、心だけは差し上げられない。有間皇子ありまのみこから生命を奪りあげたように、そう簡単には、私の場合は事は運ばないでしょう。この世の中に一つぐらい自由にならぬもののあるのをお知りになるかいい。こうおう思いに身を任せると、額田のとって中大兄皇子は敵以外の何者でもなくなって来る。
大海人皇子からの誘いは、中大兄皇子のど堂々とはしていなかった。
── 久しぶりで、十市皇女といちのひめみこに会ってはくれぬか。このところ、物心がついたのか、しきりに母を恋しがっている。
そういうことが人を介して伝えられて来る。額田を恋しがっているのは十市皇女ではなくて、父親の大海人皇子でsるに決まっていた。時には開き直って来ることもあれば、おどして来ることもあった。額田はそうした大海人皇子に答えることは、いつも同じだった。大海人と顔を合わせた時、直接自分の口で答えた。
「── わたくしをお離しになったのはあなたではございませぬか。あなたが、わたくしをおてになり、お譲りになったのです。お誘いを受けると、おそばに飛んで行きたい思いでございます。でも、そうしたら、またあなたは、私をお離しになり、お棄てになり、お譲りになるでしょう。こんな悲しい思いは一度だけで充分でございます。もう一度繰り返すのはいやでございます」
お傍に飛んで行きたいという甘い言葉で、大海人皇子は満足しなければならなかった。すべては額田の言う通りであった。確かに離したのも、譲ったのも、自分のしたことで、額田のかかり知ったことではなかった。
「さあ、退がるがいい。中大兄に見咎みとがめられると、事が面倒になる」
大海人皇子は言って、いつも自分から離れて行った。自分から額田に誘いをかけておきながら、大海人にはやはり中大兄の眼をおそれているところがあった。
2021/04/22
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