~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (2-04)
九月五日に、百済くだらより何人かの使者がやって来た。
難波津に上がると、急な使いの趣であるので、すぐ飛鳥あすかの都に赴いて、天皇にえつしたいと言った。いつもの朝貢使とは様子が違っていた。そのことはすぐに急使に依って飛鳥に報じられ、その命を待って、百済の使者たちは直ちに飛鳥に向かった。
百済の使者は朝廷に参内さんだいすると、思いがけないことを奏上した。
「今年の七月に、新羅しらぎはわが百済と事を構え、唐国に救援を頼み、唐の大軍に依って百済の国を滅ぼしてしまいました。君臣みな俘囚しらぎとなって拉し去られ、国にのこっている者は数えるほどでございます」
使者の言葉は、飛鳥朝の面々にはすぐには受け留められなかった。信ずべからざることが、使者の口から出たからである。そのような事は考えられなかったし、そのような事があっていいはずはなかった。
その場には老女帝を初めとして、中大兄、大海人皇子、鎌足等新政の首脳人たちは一人も欠けずに居並んでいた。一座は水を打ったようにしんとなっていた。七月と言えば、それから今日までに既に二ヶ月の日が経過している。
「生き残りの将軍二、三の者が二、三の地にり、兵を集めましたが、兵は殆ど前の合戦で尽きてしまっております。それでも寡兵かへいよく新羅の軍と闘い、これをはしらせ、王城だけは保って居ります。唐兵は怖れて入って来ないでおります。国は破れましたが、百済の遺臣等は王城を守り保ち、再び国を興そうとしております」
使者の奏上は終わったが、誰も声を出す者はなかった。
「国がほろんだとな」
誰かが言った。
「王も、朝臣も尽く奪い去られました」
「その乱に唐国の兵が加わっていると言うのか」
「新羅のいで唐国が出兵して来たのでございます」
「その数は?」
「何万とも知れません」
「今後の戦況の見通みとおしはどうか」
「見通しとしてございませぬ。国はすでに亡びました。遺臣が国を興そうとしているだけのことでございます。寡兵よく王城を保っております」
使者が退出すると、それを合図に、飛鳥朝廷は政変後最初の大事件に大きく揺すぶられた。半島において昔から最も関係が深く、親善関係を保ち続けていた百済くだらは、半島における往時からの権益の拠点である百済は、知らない間に亡んでしまったのである。しかも、この事件には大国唐が兵を出しているのである。
2021/04/23
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