~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (2-05)
廟堂びょうどうでは毎日のように百済問題が議せられた。
唐の国が半島へ兵を送るということは、唐の国自体にとっても大きい事件の筈であった。兵を動かすには、それだけの理由もなければならなかったし、それに対する準備の期間も必要であった。そうした事は唐国に在る者にはわかっていた筈であった。
── いま唐国には坂合部連石布さかいべのむらじいわしき津守連吉祥つもりのむらじきさ等が居る。無事に入唐したというしらせがあったのであるから、まさしく唐土に居る筈である。何らかの形で半島出兵の動きは彼等にも感じられたに違いない。それを連絡して来ぬのは甚だ遺憾いかんである。
そういう声もあった。一年前に難波津なにわづを発航して無事入唐した遣唐使の一行に非難が向けられたわけであるが、しかし、それは無理というものであった。唐の国においても兵を動かすことは隠密裡おんみつりに運ばれるであろうし、外国からの使臣にそんなことを感づかせる筈はなかった。
それよりも絶えず往来のある半島の出来事が、しかもそこで起こっている一国が亡ぶような大兵乱が、この国に使わって来ないということの方がよほど不思議と言うべきであった。いずれにしても、半島の情勢を、逐次伝えて来る機関を持っていなかったということは、大きな手抜かりと言うほかはなかった。まだ百済が亡んでしまう前なら、何らかの手の打ちようはあったかも知れぬ。百済だけは絶対に亡ぼしてはならぬ国であったのである。併し、今となって幾ら議論を闘わしても、亡んでしまった国はどうすることも出来なかった。
百済に救援軍を送るべきではないかという意見も出た。百済からの使者にって報じられて来た遺臣たちの現在の勢力というものはかいもく判らなかった。国が亡んでしまってからの、ってみれば残党の蜂起ほうきであった。現在王城を確保しているというが、いかなる守り方をしているのかも不明であった。それに半島に兵を送るとなると大国唐と事を構えることになった。新羅しらぎ一国なら兵火を交えることも考えられたが、それに唐国が加担しているとなると、問題は重大であった。半島に出兵し、そこの作戦が不利に展開したら、勝ち誇った敵の大軍をこの本土に迎えねばならないようなことになりかねなかった。
── いずれにしても、新羅は憎んでも憎み足りぬ国である。新羅だけはそのままにしておけぬ。
いろいろなことが論じられたあとは、問題は必ず新羅が憎いというところに帰った。憎い事は憎かったが、と言って、どうすることも出来なかった。政変以来、新羅は唐に通じ、その勢威を借りて事々に我を軽んじているところがあった。朝貢の使臣が唐服をまとって来るという事件さえあったのである。
不安なうちに一ヶ月が経過した。十月に入ると、百済から二度目の使者がやって来た。今度は多人数の一団だった。その大部分は、百済の遺臣たちの軍のために捕虜になった唐国の兵たちで、その数は百名を越し、いずれも、百済再興のために闘っている武将福信ふくしんから献じられて来たものであった。百余名の兵が献じられて来たことで、百済の再興軍が相当の力を持っており、かつ戦果をあげていることが判った。
福信からの書面には次のごとしたためられてあった。
── 唐人もろこしびと、己が兵団を率いて、国境を犯し、わが社稷しゃしょくをくつがえし、わが君臣を俘囚とりこにす。もともと百済は日本国の天皇の護念みめぐみを頼んで、一国を成した国である。今謹んで願わくば、お国に差し出してある百済の王子豊璋ほうしょうを迎えて、国の王とせむとす。
そして使者たちは口々に、人質としてこの国に留まっている王子豊璋を返していただきたい。そしてそれと一緒に援軍を差し向けて戴きたい、そういうことを奏した。
この使者の入国に依って、廟堂は再び大混乱を呈した。重臣たちはやかたには帰らず、昼となく夜となく、一堂に集まって、国のとるべき態度を議した。百余名の唐国の俘囚が送られて来たと言っても、そのことで百済再興軍が優勢であると見ることは出来なかった。新羅と唐の連合軍を相手にしては、所詮しょせん勝算があろうとは思えなかった。何十日、あるいは、何か月持ちこたえられるかが問題であった。
2021/04/23
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