~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-01)
何日か続いた廟議びょうぎは、ふいに打ち切られた。毎日のように参内さんだいして御前会議の席に列していた朝臣たちが、一人一人、会議の行われていた部屋から出て来、それが宮城内の庭に散って行った。朝臣たちはいずれも面窶れしている顔を、晩秋のにさらし、俯向うつむいて歩いて行ったり、連日の疲労をいやしでもするかのように半ば仰向いて歩いて行ったりした。中には、二人、三人と連れ立って、何か言葉少なにささやき合いながら歩いて行く者もあった。朝臣たちは宮城の庭を突っ切ると、表門から出て、それぞれの館に引き揚げて行った。
斉明さいめい天皇の二年春に、新築間もない岡本宮おかもとのみやは焼失したが、その後再度の造営が企てられ、その工事は今日まで続き、今や八分通りの完成を見せていた。前年、額田ぬかた中大兄皇子なかのおおえのみこから一方的な愛の宣言を受けたはぎの株の植えられてある庭も、最近いらかを敷き始めている外国使節を引見する御殿の横にあった。
新しい御殿の館々が落成し、仮の御殿が取り払われた時は、宮城内の様相は一変するはずであった。
廟議が打ち切られた日、中大兄と鎌足かまたりはその八分通り出来上がった岡本宮の庭を歩いていた。朝臣たちの姿は見られなかった。
「兵の動員は?」
中大兄が言うと、
「こんどは都近い近畿きんき壮丁そうていを徴します。これまでの東北の出征軍は、一人残らず地方の者で固めております。こうしたことは公平でなければなりません」
それから、
「問題は軍船でございますが、これは、明日にでも駿河国するがのくにに造船のみことのりを下します」
鎌足は言った。
「半島へ出征する兵団の指揮は?」
「やはり、阿倍比羅夫あべのひらふにおいてはないかと存じます。これも明日にでも、帰還の命を伝える使者を派します」
大海人皇子おおあまのみこは?」
「お若うございます。それに皇子と名の付く方が出陣することはいかがかと存じます。やはり控えていた方がよろしいと考えます」
「今度のことは、国が運命を賭けているということを、最もはっきりする形で天下に知らしめる必要はないか」
「それは他の方法にるのが宜しいと思います。半島出兵の詔を下すと同時に、朝廷は難波津なにわづへ移ります。天皇も、皇子方も、一人残らず難波津に移っていただかねばなりません。一意出征の準備に当たります。そして年が変りましたら、なるべく早く船団を率いて難波津を発航、筑紫つくしを目指します。遅くとも来春早々、筑紫に本営を置きます。筑紫以外に今度の闘いの本営を置くところはございません」
「来春早々と言うが、それまでに準備を整えることは難しいのではないか」
「準備が調う、調わないにかかわらず、朝廷は筑紫に移らねばなりません。御船は西にかねばなりません。筑紫において準備成るを待ち、その上で兵を半島へ送ることにしたらいかがでございましょう。いくら早くても、軍船を造るには半年の日子につしが必要でございましょう。軍船出動の時期は少し遅れるか、と考えます」
2021/04/25
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