~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-02)
豊璋ほうしょうは? 豊璋を百済くだら国に送り込むのは、いつにすべきか」
全軍団の出動の時で宜しいかと存じます。先に送り出しても、ために半島の情勢がどうなるものでもこざいますまい。それまで百済の遺臣福信ふくしん等が、たとえほそぼそとでも、都城を保っていてくれれば上乗、し王城が敵の手中に落ちたとしても、それはそれで致し方ないと考えます。もはや既に百済の国はほろんでしまっているのでございます」
それから、
「それよりも、一番大切なことは、このときに当たって、兄皇子と弟皇子のお二人が、ぴったりと心を一つにし、この大きい困難を斬り抜けねばならぬことでございます」
「そんなことはわかっている」
「いや、お判りになっていらっしゃるようで、必ずしもお判りになってはいらっしゃらぬ。お二人とも、はげしい御気性をお持ちになっていらっしゃる。万が一にも、取るに足らぬような小さいことで、互に反目なさるようなことがございましたら、それこそ大変でございます。そうでなくても、今まで通り、仲むつまじく御協力なさって行けば、半島の兵火など何でございましょう。取るに足らぬことでございます」
「判っている」
「いや、必ずしもお判りになってはいらっしゃらぬ。お二方、おひとりおひとりが、世にも優れた天稟てんぴんの資性をお持ちになっていらっしゃる。お二方の力が併されば、何ものをも焼き尽くさではおかぬ天の火となりましょう。若し仮にも、いささかでも、反目なさるような事態が生じましたら、それこそお互いは傷つき、国は破れ ──」
「判っている。そんなことはよく判っている」
「いや、必ずしもお判りになっていらっしゃらぬ。鎌足、さきごろより奇妙なうわさを耳にしております」
「判っている」
中大兄は“判っている”を連発していた。実際に何もかも判っていた。鎌足が言おうとしていることも、手に取るように判っていた。
「かりそめにも弟皇子の ──」
「判っている」
「お判りになっていらっしゃるなら、変な気持ちは今日限りおてになって戴きませんと ──」
今度は、中大兄皇子は黙っていた。“判っている”と言い切ってしまう自信はなかった。
「考えておく」
中大兄は言った。
「お考えになるだけでは困ります」
「考えて、なんじの心が満足するように事を取り計らうことにする」
しかと、鎌足、いまもお言葉を胸にしまっておきます。どうぞ萩の咲き乱れているお庭で、鎌足におおせになりましたことをお忘れになりませぬように」
萩と聞いて、中大兄皇子ははっと辺りを見廻した。なるほど萩の植わっている庭に違いなく、萩の株は、小さな可憐かれんな花をいっぱいつけている。秋はいつか更/rb>けているのである。
「早いものだな、もう一年経/rb>ったか」
中大兄は口に出して言った。口に出しても、鎌足には判る筈/rb>はずはなかった。
「一年と申しますと」
出雲/rb>いずもの国に大社を造る詔勅を下してから一年経っている」
「まことに」
「丁度、この庭の萩が咲きこぼれている時であった」
「左様、そうおっしゃられてみれば、あれは、一年前の丁度今頃 ──、あのお社/rb>やしろの造営も一時中止したいところでございますが、他のことと違って、あれだけは ──」
「いかに国の総力を結集すると言っても、出雲の大社の造営を取りやめるには当たるまい。それも亦/rb>また戦力につながることであろう。何もかもが無駄むだにはなるまい」
中大兄は萩の庭をゆっくり歩いた。萩に庭で約束した相手は鎌足だけではなかった。一年前、額田とも約束している。たとえ一方的な宣言であるとしても、やはりあれは約束というものであろう。額田がそうとらなくても、やはり約束と言うべきものだ。自分で自分に約束したのである。ただ厄介やっかいなのは、鎌足と額田の両方に約束したことが、丁度正反対なことなのだ。
「何をお笑いになっていらっしゃいます」
鎌足の声で、中大兄は表情をこわばらした。
「何も笑ってはおらん」
「いや、おひとりでお笑いになっていらっしゃる。この国の存亡に関わる危急の時、何を考えてお笑いになっていらっしゃるか存じませぬが、まあ、お笑いになれるくらいなら結構なことでございます」
「いや、笑ったりはせぬ。そんな余裕の持ち合わせはない。── おれは半島出兵の詔勅につづる内容について考えている」
瞬間、中大兄の顔も心も別人のそれになった。詔勅の内容を考えていると口に出した瞬間から、中大兄は別人になっていた。額田のことも消え、鎌足のことも消えていた。この何日か、考えに考えた末に、半島に出兵することを決意し、全く自分一個の考えでそれを宣言したが、いまや、その宣言を、詔勅の形で、国民のすべての者に伝えなばならなかった。
2021/04/25
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