~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-03)
いくさは起さなければならなかった。いかに大きい犠牲を払おうと、なお師は起さねばならなかった。師を起こした以上、勝利を占めねばならなかった。
「詔勅は飾りなき雄勁ゆうけいな文章で綴らねばならぬ」
中大兄は言った。鎌足は足をめて、威儀を正すようにして、中大兄の顔を見入った。中大兄の口から出る言葉をひと言も聞きらすまいといった面持おももちであった。中大兄皇子は、つい今まで自分が意見していた若い皇子ではなかった。今や、皇子は神であり、皇子の声は神の声に他ならなかった。
「他国から闘いの救援を求めて来た例は、この国の歴史に屡々しばしば見るところである。亡ぶ国をたすけ、それを存続させた例も、これまた歴史に見るところである。百済国は存亡の危機にひんして、わが国を頼って来た。どこにも頼むところのないためである。民はほこまくらにし、を嘗め、敗戦の苦しみの中から救いを求めて来た。神ですらその志を奪うことは出来ぬ」
ここで中大兄は言葉を切った。そしてまた萩の庭をゆっくりと歩き出した。鎌足も亦、そのあとについて歩いた。
「わが股肱ここうと頼む武人たちよ。百済を救うために半島に出陣せよ。百道より共に進むべし。雲のごとく会い、いかずちの如く動くべし。敵国になだれ入り、その王城をほふり、百済をその苦境より救うべし。わが股肱と頼む有司たちよ。充分なる用意と準備をもつて、百千の精鋭と百千の軍船を発遣せしむるために、それぞれおのが本分を尽くせ」
中大兄はあとを続けて言おうとしたが、それをやめた。心はたかぶっていたので、半島への出兵を決意した自分の気持を、うまく言葉に出して言えなかった。
また、このあとを続けて鎌足に聞かせる必要もなかった。鎌足は自分の言葉の足りないところを補い、自分の言葉の熟していないところを熟させ、その上でそれを適当な部署へと廻すだろう。恐らく今夜一晩のうちに、雄勁な詔文となり、早ければ明日にも、百官の朝臣はもとより、国の津々浦々の役人にも伝えられるであろう。辺境で柵に拠っている武将た日も、何日かの後には、その詔勅によって、新しい行動を起こすだろう。
中大兄皇子は、鎌足と別れると、なおも萩の庭をひとりで歩いた。一度、中大兄の心の中に入って来た額田であったが、もはや中大兄の心の中には額田の入って行く席もなければ、空処もなかった。
中大兄はさっき鎌足が言ったことを、もう一度思い浮かべて、それを一つ一つ検討して行った。詔勅の発表と同時に、朝廷は難波津に移らねばならぬ。そう鎌足は言った。併し、いくいら急いでも、十二月にはいってのことになるであろうし、それも月の終りのことになるだろうと思う。このことの采配さいはいは大海人皇子に任せねばならぬだろう。
たとえ準備不足でも、年を越したら御船は西にかねばならぬ、と鎌足は言った。
これも、そうすべきであろう。この方は鎌足の考えている時期よりずっと早めねばならなかった。年が改まったら早々に、五日でも、六日でも、御船は難波津を発して西に向かわなばならぬ。是が非でも、そうしなければならぬ。この采配も亦大海人皇子に託すべきであろう。大海人以外に、これをやってのける人物はない。
筑紫からの軍船の出動は、半年あとになってもいいと鎌足は言った。この鎌足の考えには訂正するところはなさそうだ。併し、大唐国を相手に干戈かんかを交える以上、準備期間は倍にすべきだろう。一年の準備期間でも決して長いとは言えないのだ。その一年間に船を作り、兵を筑紫に集める。この采配も亦、── ここまで考えて、中大兄皇子は足を停めた。
── やはり大海人皇子をいては、適当な人物はなさそうだ。
中大兄は眼をつむった。鎌足がしゃべったことで、最も正しいことは、大海人皇子と仲違なかたがいするようなことがあってはならぬ。しあったら、国が破れるだろうという指摘であったと思う。確かにその通りであるに違いなかった。額田をその腕からり上げた弟の皇子が、中大兄にはやはり何ものにも替え難い協力者に思えた。
2021/04/25
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