~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-06)
天皇の難波御幸が、十二月二十四日に決まった事の1発表があったのは、その十日程前であった。
額田ぬかた は自分が難波に行って、そこに留まるか、更に筑紫に向かうことになるのか知っていなかった。天皇が難波に留まれば、当然額田も難波に留まらねばならなかったし、御船が西行すれば、額田もまた天皇と一緒に筑紫に赴かねばならなかった。 併し、額田はいくら半島出兵という大事を控えていても、老帝が、筑紫に向かうというようなことがあろうとは考えられなかった。中大兄なかのおおえ大海人おおあま鎌足かまたりたちは半島の出征軍を指揮しなければならぬので、筑紫に居を移すことになるであろうが、老女帝が二人の皇子たちと一緒に西行するとは思われなかった。
それにしても、額田は飛鳥あすかの都を離れると、いつもどって来られるかわからなかったので、額田は額田で御幸の前を忙しく過ごさねばならなかった。父と母の会っておくために、大和の郷里の村へも帰省しなければならなかったし、このままここに留まらねばならぬ姉の鏡女王かがみのおおきみとも一緒の時間を持たねばならなかった。そしていかに宮仕えとは言え、額田にも何かと身の廻りのことで整理しておかねばならぬことがあった。半島出兵は額田にも無関係ではなかったのである。
額田は郷里への帰省を一番あと廻しにし、難波行きの準備を調え、姉の鏡女王の館も訪ねた。そして郷里の大和へ帰省したのは、御幸を三日ほど先に控えた時であった。
郷里の家に額田の輿こしが着いた時から、雪が降り出した。これまで、毎日のように白いものは舞っていたが、それとは全く異なって、湿気を帯びた重い雪がほどろほどろに大和平野に落ち始めたのである。額田は短い時間しか郷里の家では過ごせなかった。もともと日帰りの予定で出て来たが、雪が落ち出したので、なおさら心がいた。大雪にでもなった時の途中の難渋が思いやられた。
まだ暮れるには早いころ、額田は両親に送られて、自分が生まれた家を立ち出でた。
輿は雪の中を飛鳥の都を目指して進んだ。たいした道のりではなかったが、輿はところどころ休んだ。輿が休む度に、額田は垂をめくってみた。見渡す限りの白い雪の原であった。そして天地をこやみなく小さい雪片が降り込めている。
何度目かに輿がまった時、人声がして、外部から声がかけられた。
「急の御用事ができまして、お迎えに上がりました」
額田は垂をめくって、自分の乗っている輿にぴったりと寄り添うようにして、もう一つの輿が置かれてあり、一人の役人が頭を垂れて立っていた。その役人の頭髪にも、肩にも、白いものが置かれてあった。
「いずこからのお使いでございましょう」
糠谷はいたが、すぐ自分を迎えに来ている輿が王宮から差し廻されて来たものであることを知った。輿の作りも異なっていたし、役人の身なりも異なっていた。
「承知いたしました」
額田はおのが輿から出て、もう一つの輿に乗り移った。三日先に難波御幸を控えているので、何か自分を必要とする急の用事が出来たのであろうと思った。そういう用事が出来たとしても、一向に不思議ではなかった。
こんどの輿は休むことなく動いていた。額田を迎えた役人は騎乗で輿に続いている。
やがて、輿は都に入った。都もまたすっかり雪をかぶって、都大路には全く人影とおういものはなかった。額田は己が館に入って、服装を改めて参内さんだいするつもりで、そのことを役人に申し入れたが、
「何分、火急の御用事かと存じますので」
そういう役人の返事だった。
輿は、これまたすっかり雪で化粧直しされた宮城の苑内えんないへ入り、そのまま奥深く運ばれて行った。
輿が降ろされた所は、まだ半造りのままで放置されなければならぬ運命を持った岡本宮の中で、どうにか宮工たちの手を離れる幸運を持ったわずかの館の中の一つの前であった。額田は不思議なところに降ろされたという気持だったが、何かこの新しい御殿の一棟ひとむねで、御幸を前にしての神事でも行われるのであろうかと思った。
門をくぐると、その門を真ん中にして、左右に廻廊がのびて、館の前の広場をぐるりと包んでいる。広場にはまだ一本の樹木も植えられていないし、当然門から館の正面へと伸びていなければならぬ石畳の道も出来ていなかった。
額田はしばらく、門をくぐった所で足を停めていた。昨日までまだ普請場ふしんばの感じを抜けていなかった新造の館は、今はすっかり様子を改めていた。窓の外囲いは外され、そこらに敷き詰められていたむしろは取りのけられて、今や、いかなる貴人が入っていると言っても、さほど不思議でなく思われる。館ばかりでなく、館に通じている廻廊も、不要物は片付けられ、通路はきれいに掃除されてある。
ただその廻廊が包んでいる前庭に一本の樹木も、一個の石も置かれていないことが物足りぬ感じだが、今はそこを雪が埋めていた。庭はふかぶかと雪におおわれ、その上になお雪片がこやみなく降り積んでいる。
2021/04/26
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