~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-07)
額田女王が廻廊を歩き出した時、老女が一人、どこからともなく姿を現して出迎えた。これまでについぞ見掛けたことのない老女であった。
老女はひと言も口から出さず、頭を下げると、額田の方に会釈えしゃくして、どうぞこちらにお運び願います、といった風に、先に立って案内した。額田はこのあたりから、少し様子が変だと思うようになっていた。館は異様な静けさで包まれている。
廻廊を通って、館の中に入った。途端に温気うんきが氷のように冷え込んでいる額田の体を包んだ。部屋の中には調度が置かれてあった。高い卓も置かれ、卓をめぐって何脚かの椅子いすも配されてあった。床には大きい唐国からくに花瓶かびんも置かれ、燭台しょくだいも置かれてあった。つい二、三日前までは、一応出来上がったというだけで、締め切られてあった館の筈であった。それが、今は人の住める部屋になっている。いつこのようになったのか判らなかった。
額田は温められている部屋の入口に一歩踏み込んで、そこに立っていた。一体、これはどうしたということであろうか。老女はいつか姿を消し、代わって、これも一度も見掛けたことのない侍女が現れた。この侍女も亦ひと言も余分なことは言わず、ただうやうやしく果汁を運んで来た。額田は椅子の一つに腰を降ろして、それを飲んだ。
その同じ侍女の手で、燭台に灯がともされた。その時気付いたのであるが、窓から見える雪の前庭にはいつか夕闇ゆうやみが来ようとしている。耳をすますと、雪片の落ちる音が聞こえている。しんしんと雪は降り続いているのである。
額田はいつか落ち着きを取りもどしていた。自分は今、中大兄に迎えられたに違いないと思った。中大兄は一年待つと言ったが、その一年は過ぎて、はぎの季節はとうに終わって、今は雪が落ちているのである。額田はこのようにして、中大兄に迎えられる時が来ようとは思っていなかった。半島への出兵騒ぎで、中大兄の心から額田のことなどは飛び去ってしまっている筈であった。難波御幸はあと二、三日に迫っているのである。それなのに、このようなことがあっていいものであろうか。
併し、額田には、自分が中大兄に迎えられたとしか考えられなかった。それ以外に、このような日に、このような場所に招じ入れられることは考えられなかった。この新造の御殿の館には、いま一体誰が居るのであろうか。額田は自分をここに案内して来た老女と、果汁を運んで来た侍女の二人にしか会っていなかった。
額田は暫く一人にしておかれた。すると、果たして、誰にも案内されず、ただ一人、中大兄皇子が姿を現した。新政の権力者の現れ方とは受け取れぬ唐突な現れ方であった。額田は立ち上がって、中大兄を迎えた。
「宮が出来上がった暁は、ここを額田の館にするつもりでいた。併し、こんどの騒ぎで、ここも当分使うことは出来なくなった。宮の普請も打ち切らねばならなくなった。だが、せめて一夜だけでも、額田にここで過ごしてもらおうと思って調度を入れてみた。ゆっくりと休んでみるがよかろう。今のところ、本式に額田がここに入るのは何年先のことか見当が付かぬ」
中大兄は立ったままで言った。屈託ない言い方だった。そして、
「自分はこれから宮中に伺候しこうせねばならぬ。さねばならぬことは山のようにたまっている。大勢の者が自分を待っている。今夜はこの雪では冷え込みがひどいだろう。風邪をひかぬように注意したがよい」
それだけ言うと、中大兄皇子はすぐ額田の方に背を見せた。中大兄が去ってから気付いたのであるが、その衣服の一部がれていたところから見て、中大兄は今宮中からやって来て、すぐここに顔を見せたのであろうと思われた。そして言うだけのことを言うと、すぐ帰って行ったのである。
額田は、中大兄が立ち去ってからも、なおそのまま、そこに立ちつくしていた。額田は自分が頭を下げただけで、ひと言も口から出さなかったことを思った。言うべきことはあったのであるが、それを口にする暇もなかったし、たとえその暇があったとしても、どのように自分の考えを整理して述べるべきか、用意は出来ていなかった。
思えば、中大兄に皇子は権力者らしく、何もかもが一方的であった。一年前の愛の宣告が一方的であったように、この場合も亦一方的であった。このやかたに額田を住まわせようということも自分一人の考えであったし、そこで一夜だけ額田を過ごさせようというのも自分一人の考えであった。
2021/04/27
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