~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (3-08)
額田はこんどの半島出兵で中大兄との事は無期延期になったと思い込んでいたし、たとえ中大兄の召しを受けるようになっても、その場合は額田は額田として取るべき態度があった。このような館に住むことなどは、どんなことをしても辞退しなければならぬものであった。妃として遇されることからは、身を守らねばならなかった。
── お館に住まわせていただくことは有難いことでございますが、それだけはお許し戴きます。額田は神に仕えております身、わがままをお許し願って自由にさせておいて戴きとうございます。
額田はこう言うもりであった。中大兄と関係を持った女で、妃として遇されることを拒む者が他にあろうとは思われなかった。それだけに、額田は自分の希望がれられるに違いないと信じていた。妃としてのあらゆる競争を棄てることであり、そうした事から遠く離れたところに身を置くことであった。
併し、今の場合、一夜、ここで過ごせというなら、ここで過していいだろうと思った。それをさえ拒む必要はなさそうであった。確かに中大兄が言ったように、この館が問題になるような時の来るのは、何年先のことか判らなかった。これから国の運命をかけての闘いの時代に入って行くのである。
老女が再び姿を現した。湯を浴びて、衣服を着替えるように言った。老女の顔は能面の如く無表情であったが、言葉はこれ以上の鄭重ていちょうさはないといったような鄭重なものであった。
額田は言われるようにした。長い廊下を渡って行った。廊下には適当な間隔で灯がともされてあって、突き当りに湯桶ゆおけの置かれてある真新しい浴室があった。
額田は湯を浴びた。浴室から出ると、衣類を入れたかごが用意されてあった。額田はそれをまとった。一夜だけの妃であった。それを纏うのにさして抵抗は感じなかった。
先刻の侍女とは別の、新しい二人の侍女が入って来た。頃合頃合ころあいを見計らっての現れ方であった。額田は衣類を身に付けるのに自分の手をわずらわすことはらなかった。二人の侍女に任せておけばよかった。この侍女たちもまた余分の言葉はひと言も口から出さなかった。
額田は椅子に腰を降ろした。その頃からまた別の二人の侍女が現れた。四人の侍女たちにって、髪がかれ、顔がよそわれた。一人が鏡を差し出して、額田の前に立っている。この頃になって、額田は不安なものを感じ始めていた。自分にとって、今夜は特別なものになるのではないかという思いが、ちらちらと顔をのぞかせ始めた。併し、さっきの中大兄皇子の言葉を思い出すと、そのようなことがあろうとは思われなかった。額田は自分が、自分一人で過ごすために、この館に運び込まれたに違いないと、改めて自分に言い聞かせた。
額田は部屋に戻ると、またそこで自分一人の時間を持った。こやみなく降る雪に包まれた夜の館は静かであった。不気味なほど静かであった。
やがて二人の侍女に依って、食膳しょくぜんが運ばれて来た。二人は食膳に向かう額田の席から少し離れたところに立っていた。そして途中で気が付いてみると、更に二人の侍女がはしの方に立っていた。それらの侍女たちが、さっき自分の着替えや化粧を手伝った侍女たちと同一人物であるかどうか、額田にはわからなかった。部屋の灯火はあかあかとともされてはいたが、それでも女たちは、それぞれ半分の己が影を持っていた。
額田は四人の侍女が居る部屋が、全く無人の部屋の静けさを持っているのを知った。額田はそうした部屋の中で、自分が不思議に落ち着いているのを感じていた。居るべからざる館に居るような思いはなかった。
もう何年も、こうして同じ生活をしているかのような思いを持ち、またそのように振舞った。いささかの不自然さも感じなかった。何か不思議なものが、額田を支えていた。それは自信と呼んでいいものであったが、それがいつどこから来て、自分の心の中に居坐ったか判らなかった。強いて、それを探せば、さっき侍女の一人が支えていた鏡の中に映った自分の顔が、多少の役割を果しているのかも知れなかった。額田はその鏡の中に映った自分の顔に満足していた。今までの自分の顔にこのように満足したことはなかった。
また、額田は中大兄皇子に、このように遇されてことにも満足していた。一夜だけの妃であったが、それが一夜だけと限られていることに依って、不思議に誇り高いものを感じていた。自分は再びこの館に入る日を持たないであろう。ここは額田が今宵こよいだけを過し、そして棄てる館であった。
併し、侍女たちは必ずしも石の像のように、黙って立つために、ここにはべっているわけではなかった。額田の相手をし、額田を退屈させないように額田に仕える役目を、四人の侍女たちそれぞれが持っていたのである。併し、彼女たちは、自分たちの心に反して、そうすることが出来なかったのである。侍女たちには、自分が話しかけることが出来ないほど、額田は誇り高く、優しく、美しく見えていた。ふいにこの館の主人あるじになった女性を黙って見守っている以外仕方なかったのである。
2021/04/28
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