~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (4-01)
雪は一夜でやんだが、都はふかぶかと白いものに包まれた。
その雪が消えない二十四日、老女帝は難波宮なにわのみやみゆきした。額田ぬかたも天皇に侍して、難波に移った。飛鳥あすかから難波へかけての野山は雪におおわれており、この国の遭遇している運命の多難さを思わせるように、この最初の旅は難渋を極めたものであった。香山かぐやま耳成山みみなしやま畝傍山うねびやまも雪で真白であった。短い旅ではあったが、天皇が半島出兵のために、都を立ち出でるのであるから、正しくは出陣と名付くべきものであった。が、そうした出陣の威儀も行装の美々しさも、雪のために調えることは出来なかった。
天皇の幸に続いて、それから毎日のように、幾つかの集団が、同じように悪路に悩まされながら、飛鳥から難波に移った。兵の集団の場合は、そてに付き添うようにして、雪の道を歩いて行く女たちの姿が見られた。徴された若者の母や妻や娘たちが、異国の野戦に送られる身近い者を、難波まで送ろうとしているのである。女たちの集団は兵団が停まればまり、兵団が動き出すと動いた。
天皇の幸の翌日、中大兄皇子なかのおおえのみこも難波に移ったはずであったが、額田は中大兄の姿を見掛けることはなかった。難波の宮は、老女帝の館だけを除いて、それこそはしの巣をつついたように混乱を極めていた。
遷都せんと以来、丁度六年の歳月がっていた。難波の旧都は六年ぶりで、突然入って来た人間たちでふくれ上がった。暮も正月もなかった。旧都の半分は廃墟はいきょのようになっていたが、その廃墟のあちこちに兵たちはたむろしていた。兵たちは昼間はそれぞれの任務を果すために、あちこちに散っていたが、夜になると屯している場所にもどって来た。毎夜のように廃墟には、兵たちのく火が何百となく見られた。
港はおびただしい数の軍船で詰まっていた。平時は半島から来ている船の十そうや二十艘はいつも見られたが、今は一艘の異国の船も碇泊ていはくしていなかった。異国の船はことごとくどこか他の港に移されたといううわさであった。
明くれば斉明さいめい天皇の七年である。難波の宮では新年の賀が開かれたが、形式的のもので、その宴に列した朝臣たちの数も少なかった。この賀宴の席で、中大兄皇子にって、筑紫つくしへの出動が六日に決まったという発表があった。
六日というのは、確かにこの一月の六日のことであろうか、一座の者からそういう質問が発せられたほど、この一月六日の筑紫へ向けての発進は、その場に居た朝臣たちにとっては衝撃であった。朝臣の多くは、筑紫へ移動する前に、もう一度家族の居る飛鳥へ戻れるものとばかり思っていたので、そうした朝臣たちにとっては苛酷かこくな命令というほかなかった。
中大兄皇子は、しかし、一日も早く筑紫に移ることの必要を感じていた。必ずしも、半島への出兵を急いでいるわけではなかった。それより、こんどの措置の狙っているものは、早急な戦時体制への切り替えであった。政府が難波に留まっている限り、朝臣にとっても、民にとっても、半島出兵はまだまだ遠い先のことであった。併し、天皇を初めとして、政府も兵もみな筑紫へ移ってしまえば、それに依って、役人も、兵も、民も、否応いやおうなしに時局への認識を改めねばならなかった。半島出兵は国が直面している現実への問題となる筈であった。そのようになって初めて、軍船を造ることも出来れば、武器を造ることも出来た。兵を徴することも出来れば、民をして、苦しい生活に耐えしめることも出来た。
政府の首脳者たちは半島への出兵の時期をこの年の秋に予定していた。そして、それまでの一年近い歳月の間に、異国における戦闘のすべての準備をしなければならなかった。半年や一年で造り得る軍船の数も、武器の量も知れたものであった。併し、知れたものでもて置くことは出来なかった。何年かかかることを、半年か一年でやってしまわなければならなかった。それには、御船が西に行くことが必要であったのである。御船既に西行せり。この言葉は、あらゆるところで、それがささやかれる度に、ほとんど信じられぬくらいの大きい力を発揮する筈であった。
2021/04/29
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