~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (4-02)
額田女王ぬかたのおおきみまた忙しかった。飛鳥をつ時は、老女帝に侍して、自分も亦何となく難波に留まるようになるのではないかと考えていたのであるが、新年の賀宴の発表に依って、そうした考えは払い落さざるを得なかった。老女帝の身のまわりの準備だけでも多忙を極めた。儀式用の式服、礼服の梱包こんぽうだけでも、おびただしい数になった。まして四季それぞれの衣類を携行するとなると、気の遠くなるような量になった。そした旅支度に追われている最中、額田は中大兄皇子のもと伺候しこうした。老女帝の西行の準備のことで指示を仰がねばならぬことがあった。難波に来てからの新年の賀宴の席で、一度中大兄に会っていたが、勿論もちろん言葉を交わせるような近い席ではなかった。
額田は、できるなら中大兄皇子と会うことは避けるべきであると思っていたが、老女帝に関する用件で、どうしても中大兄に会わなければならなくなったのである。額田は中大兄に対していかなる感情を持つことも、自分に禁じていた。これは、雪の夜のことのある前から、何十回となく自分に言いきかせていたことであり、それは皇子と一夜を明かしたあとの今も、少しも変ってはいなかった。一夜、その腕の中に抱きしめられたぐらいのことで、一体、何が変わるというのであろうか。大海人皇子おおあまのみこに抱かれた時と同じように、中大兄皇子に抱かれただけのことであった。
そろそろ夕闇ゆうやみが迫ろうとしている時刻であった。額田女王は中大兄皇子の姿を求めて難波の宮の館々を経廻った。どの館もそれぞれ大勢の男女が出入りして混乱を極めていた。
「中大兄皇子さまはどこにいらっしゃるでしょうか」
額田は到るところで、同じ言葉を口から出した。
「皇子さまは今ここに居られましたが」
とか、
「もうここにお見えになる筈です」
とか、どこでも同じような返事が返って来た。併し、その返事を当てにしているととんでもないことになった。中大兄はその辺りに居るわけでも、またそこへ姿を現すわけでもなかった。額田が中大兄の姿を求めて歩き廻っているように、中大兄は中大兄で、館から館へと歩き廻っているろしか思えなかった。
そのうちに、苑内えんないのあちこちで篝火かがりびかれ出した。それぞれの篝火の附近だけに人の動きが見られた。どうしてこのように動きまわらねばならないのかと思われるほど、男も、女も動いていた。篝火が焚かれ出すころから、苑内には警備の兵たちが入って来た。兵たちはいずれも、ものものしく武装して、要所要所に配されていた。
額田は中大兄の館を二度訪ね、二度目にそこに中大兄の姿が見られないのを知ると、中大兄をとらえることは半ばあきらめた気持で、そこを出た。中大兄の館の上手かみから外国の使節を引見するために造られた御殿の廻廊が伸びているが、そこもまた人の往来がはげしかった。ところどころに燭台しょくだいが置かれてあり、そこに一人ずつ兵が立っている。額田はこの御殿を通り抜けて、老女帝の御座所になっている館に引き返すつもりであったが、長い廻廊を突き当りまで行った時、ふと足を停めた。そこは高殿たかどのへの上り口になっている。
しかしたら ──、そんな気持ちで、額田はめったに人の上がらぬ高殿への階段に足をかけた。廻廊からほんのわずか外れただけで、人の気配というものは全くなく、足許あしもとには暗い闇がい寄っている。広い難波の宮の中で、ここだけが混乱の中からはみ出している感じだった。
額田は折れ曲がった階段を登り詰めたところで、足を停めた。
「誰か」
不意に声をかけられた。
「額田でございます」
額田には相手が誰であるかわかっていた。
「よくここに居ることが判ったな」
その中大兄の言葉に対して、
「皇子さまがどこにいらっしゃろうと、額田にはすぐ判ります」
額田は言った。足が疲れるほど中大兄を探し廻ったことなどは、おくびにも出さなかった。額田は意識して、そのような言い方をしたのではなかった。高殿へ上って来て、中大兄から声をかけられた時、やはりここに中大兄に皇子は居たのであるという思いを持った。他の誰にも判らなくても、自分だけには判るのだ。どこに身をお隠しになっても、この額田の眼からはお逃れになることは出来ません。口には出さなかったが、そんな気持だった。
2021/05/01
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