~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (4-03)
額田は中大兄の体を沈めている高殿の闇を見守っていた。
「港が見える」
中大兄は言った。その言葉で初めて気付いたのであるが、漆黒しっこくの夜空に降るように星はばらかれており、その星空の果てに、灯火に固まっている地帯が見えていた。
港であるに違いなかった。港も亦この宮城の内部同様に、あるいはそれ以上に、人と荷物で混乱を極めている筈であった。何百人の労務者や兵たちに依って、積荷の徹宵てっしょう作業が行われているに違いなかった。海も港湾も見えず、灯火だけが固まって見えている。その港の騒擾そうじょうであるがか、宮城内の騒擾であるか、時々どよめきのようなものが、ここまで上がって来ていた。
「大海人皇子には、まだ話していない。わざと話さないわけではない。二人とも忙しくて、そんなことを話している暇がないのだ」
中大兄は言った。自分と額田とが持った新しい関係について、額田の譲渡者である大海人皇子に、まだ何も伝えていないという意味であった。
「そんなことは、何もお伝えになる必要はないかと存じます」
額田は言った。
「無断で、いきなりなんじを妃としておおやけにすることは出来ぬ」
「額田は妃としていただくことを望んではおりませぬ。雪の夜、お館を頂戴ちょうだいたし、妃としてお仕えいたしました。あの一夜だけの妃で充分満足でございます。今は新しい一人の妃でもお蓄えになる時ではないでございましょう。妃たちの間にどんな小さい波紋でもお立たせになってはなりません。大海人皇子さまとの間も、これまで以上に御親密でなければならぬと存じます。額田はこれまで通りにしておいて戴きとうございます。天皇にお仕えしている侍女、神事に奉仕する巫女みこ、そして ──」
「そして、──?」
「誰も知らない、皇子さまだけが御存じの、額田は皇子さまのおいのち」
額田は言った。中大兄皇子の返事はなかった。そして暫くしてから、
「星がきれいだな」
中大兄は言って、
「すべて、汝の望むようにしよう。いま、汝は余の命になると言ったが、命にはなれまい。余の命は余が持っているものだ。余から離れていて、余の命にはなれぬ。だが、まあ、それもいいだろう。── 自由にしているがいい。る時は声をかける。要らない時はほうっておく」
最後の言葉は投げ出すように口から出された。額田とて本気で言った言葉ではなかった。どうして自分が中大兄の命になどなっていいであろうか。額田は顔を上げて、中大兄を包んでいる闇を見詰めた。とうとう中大兄を憤らせてしまったかも知れないと思った。すると、
「余が今、なぜここに立っていると思うか」
中大兄の声が聞こえた。
「連日、山のようなお仕事でお疲れになっていらっしゃるからでございましょう」
額田は言った。
「疲れてはおらぬ。今頃から疲れたのでは困る。船団発航を神に告げる出陣の儀式を、筑紫までの航海の途中挙げねばならぬが、それを闇の夜にすべきか、月明の夜にすべきか考えていたのだ」
「月の美しい夜がよろしいかと存じます」
間髪をれず、額田は言った。
「いかなる理由で」
「その時の凛々りりしい皇子さまのお姿を拝したからでございます。このような闇の夜では、皇子さまのお声しか聞けません」
「よし、月明の夜を選ぼう。船団は矢のように早い潮の流れに乗る。潮の光り、船団も光る」
そして、
「行け、もう一つ考えねばならにことがある」
額田は中大兄を一人にするために、そこを離れた。中大兄の指令を仰がねばならぬ用件のあるのを忘れたわけではなかったが、いまの中大兄をそのようなことでわずらわすのを避けたのである。
2021/05/01
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