~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (4-04)
御船西征の正月六日は、朝から身を切るような寒い風が吹いていたが、冬空は一点の雲もなく晴れ渡っていた。なにわわずらの港には軍船がひしめき合っており、早朝より兵の乗船は始められていた。港湾には一面に小さい三角波が立っており、ためにそこを埋めている軍船は、大きい船も、小さい船も、いつそこに視線を投げても、一様に揺れ動いていた。そして海面には冬のが散っていた。船団の発航には寒い風が吹いていることを除けば、まあ上乗の日と言わねばならなかった。
兵を満載した大小の船は次々に、港湾の半分を埋めているあしの地帯の向こうへ移動していった。その度に、岸の見送りの集団からは喚声が上がった。出征して行く軍船の船出であるから、同じ喚声にしても、荒々しく、雄々しいものがあっていい筈であったが、むしろ遣唐船の見送りの時よりひっそりしていた。喚声のどよめきの中には、必ず絶叫に近い女の金属製の叫びが混じっており、それが聞く者の胸に冷たく突き刺さった。
午刻ひるどき近い頃から、政府の首脳者、朝臣たちの乗船が始まった。大型船の一艘いっそうに、大海人皇子おおあまのみことその妃たちが、兵と朝臣の集団に前後をはさまれるようにして乗り移った。
その時、額田は老女帝に侍して、波止場の幔幕まんまくを張りめぐくらして作られた御座所近くに居た。大海人皇子、中大兄皇子たちの、それぞれの乗船が終わってから、老女帝の乗船の番になる筈であった。それまでには多少の時間があった。
額田は御座所近い席から、大海人皇子一族の乗船の模様をおのが眼に収めていた。突堤から船へかけてある板の橋を、何人かの妃たちが危っかしい格好かっこうで渡って行くのが見えた。一人が橋を渡るのも容易な事ではなかったが、それが何人も居た。衣服の白い布片が空に舞い上がったり、首に捲きついたりし、もすそは裳で、また風にあおられている。遠くから見ると、傷ついた天女が風の中で歩き悩んでいるように見えた。そしてその天女の前後を女官たちが固めているが、彼女たちもまた所詮しょせん傷つける天女の片割れでしかなかった。やたらによたよたし、やたらにふらふらし、それでもどうにか、次々に船の中に吸い込まれて行った。
額田は遠くからでも、いま大勢の妃の中の誰が船に乗り移ろうとしているかが判った。臨月の大きな腹を持っている若い天女もあった。中大兄の皇女で、大海人の妃となった大田皇女おおたのひめみこであった。額田は、若い妃たちに特別な感情は持たなかった。大海人皇子も、この天女たちの一団を引き連れて行くのでは、さぞ大変であろうと思われた。どう見ても、合戦とも、出陣とも、無関係な情景であった。
しかし、これを遠くから見ている見送りの民たちには、やはり異常なものがおまこの国を襲おうとしていることを感じないわけには行かなかった。確かに容易ならぬ事態が起こっているのである。あのようにして、身分高い弱々しい女たちが、昨日までの御殿の何の苦労もない満ち足りた生活の中から引き出され、潮の上を漂い、どこか遠い西国さいごくへ連れて行かれるのである。そこでは合戦が待っているであろう。実際には合戦はないかも知れないが、合戦の生臭い息吹いぶきのむんむんしている所であるに違いない。民たちは、自分の夫や息子たちが徴せられて事の悲しみを、この時だけ向こうへ押しることが出来た。
大海人皇子一族の乗船が終わると、その船は蘆の向こうの水域に移動して行き、あとには、中大兄一族の乗り込む船がやって来た。ここでも、また天女たちの危っかしい乗船の情景が展開された。中大兄は大勢の妃を持っていたが、筑紫つくしに同行するのはその一部であった。額田は一人一人に眼を当て、妃たちの名を心の中で拾っていた。倭姫王やまとのひめのおおきみの姿もあれば、志貴皇子きしのみこを生んだ道君伊羅都売みちのきみいらつめの姿もあった。常陸娘ひたちのいらつめの姿もあれば、川島皇子の母である色夫古娘しきぶこのいらつめの姿もあった。大海人皇子に属する天女たちの場合と違って、額田はそれに対して多少違った心の動き方を覚えていた。
天女は天衣をひるがえし、細い腕を触覚のように振り廻している。時々、額田は、ああ、。危ない! と思う。確かにいつ橋の上から落ちても不思議はなかった。併し、よくしたもので、なかなか落ちなかった。ああ、危ない、もう少し! 額田は心の中で叫んだ。もう少しと言うのは、もう少しで落ちるのにという気持であった。あれだけ大勢の天女たちが居るのであるから、一人ぐらい潮の中に落ち込む天女が現れてもよさそうなものであるが、それが、なかなか現れなかった。額田はそうした自分の気持に気付くと、すぐそれを追い遣った。
大勢の天女や侍女たちが乗り込み、これまたおびただしい荷物の積み込みが終り、最後に朝臣や兵たちが乗った。
2021/05/02
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