~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
明 暗 (4-05)
額田は中大兄皇子の姿を待っていた。自分の眼に狂いがない限り、中大兄はまだ乗り込んでいないと思った。しかしたら、中大兄皇子はあの船に乗り込まないかも知れない。皇太子として天皇がお乗りになる船に乗るのかも知れない。そうしたことはないとは癒えなかった。充分ありそうなことにも思われた。避暑や避寒のための旅立ちではなくて、異国へ出兵するための西征なのである。
併し、額田のこの期待は裏切られた。中大兄は何人かの朝臣と共にやって来ると、一番最後に悠々ゆうゆうとした足取りで船に乗り込んで行った。額田はこの時、ふくれ上がりかけていた自分の心が、急にしぼんで行くのを感じた。波止場付近の潮の色も急に輝きを失い、海面の波立も冷たく黒っぽいものに見えた。
急に周囲はざわめき出した。老女帝と、それを取り巻く一団の乗船のときが来たのである。鎌足かまたりがやって来て、いっさいの采配さいはいを振った。幸徳天皇のきさきであった間人皇女はしひとのひめみこもこの船に乗るらしく、華奢きゃしゃな美しい姿を見せ、朝臣たちも兵も、波止場に居並んでいた。どこからも喚声の起らぬ静かな乗船であり、船出であった。港湾には、まだたくさんの船が浮かんでいた。これから兵たちが乗る船もあれば、武器だけを積載する負も船もあった。
その日の夜半、船団は港湾を出て、西を目指して、潮に乗った。文字通り空っぽになった難波の旧都では、いつ果てるともなく、幾つかの寺でき鳴らされている鐘の音が殷々いんいんと鳴り響いていた。鐘はその間隔を次第に間遠にはするが、これから何日も何十日も、撞き続けられるということであった。
八日、西征の船団は大伯海おおくのうみに到着した。ここは西行する船が必ず碇泊ていはくする小豆島しょうどしまの北方の海域であった。ここで大海人の妃太田皇女が女児を産出したが、このことは次の碇泊地に行った時に伝えられて来た。
船団は瀬戸内海をの海岸に沿って進んだ。ところどころで、船は港に入った。食料を積み込む船もあれば、新たに兵を積み込む船もあった。
十四日に、船団は伊予の熱田津にぎたづに到着した。熱田津は西征の行路からは外れていたが、そこは老女帝がかつて夫の舒明じょめい天皇と共に来遊したことのあるゆかり深い地であって、岩湯いわゆ行宮かりみやがあった。中大兄は春が来るまでに老女帝をその温泉のき出ている地で過ごさせようと思ったのであった。筑紫に到着することは急がなかった。難波津をち、御船が西征の途についたということで、西征の第一の目的は達していた。西征自体に意味があったのである。
筑紫に到着すると、それからは本格的な出兵準備に取りかからねばならなかった。
兵の訓練も行わねばならなかったし、新たに筑紫から兵も寵さねばならなかった。その間に、新造の軍船は次々に集まって来るであろうし、武器も集まって来るであろう。
東征の出征軍もまた、異族征伐を中止して、筑紫にやって来るはずである。阿倍比羅夫あべのひらふも姿を見せることになったいる。その上で、半島と連絡を取って、そこへ兵団を投入する時期を決定する。好むと好まないにかかわわらず、大唐国と事を構える以上、半島出兵が短期間で終わろうとは思われなかった。何年も、何十年もかかるかも知れない。そのためには、半永久的な行宮の造営も必要になって来る。政府の機関がそっくり引越しして来たのは、腰をえて、ここで半島の経営に当たるためであった。
従って、中大兄皇子は、兵団の筑紫到着を決して急いではいなかった。それより大兵団の根拠地として、夥しい数の兵を収容しなければならぬ筑紫に、食糧や物資の面で充分の準備と用意をさせていおく方が重要な問題であった。中大兄はこうしたことで三月まで船団の大部分を熱田津に停め、一部だけを筑紫に先行させることにしたのであった。
熱田津の石湯の行宮に滞在中、額田は老女帝にお供して、附近の山野に遊んだ。老女帝は昔ここにのこしておいた物などを見て、よろこんだり、涙を流したりした。建王たけるのみこの死以後、すっかり心弱くなっている女帝は、出征途上立ち寄った熱田津でも、また心は慰められないようであった。
2021/05/02
Next