~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (1-01)
船団が娜大津なのおおつ(博多湾)に到着したのは三月二十五日であった。難波なにわの旧都を発航したのは一月六日であったので、途中熱田津にぎたづ碇泊ていはくしていたにせよ、かく、目的地に到着するまでに二ヶ月半以上の日子を要したことになる。いつか冬は終り、春が来ていた。
斉明さいめい天皇はすぐ 磐瀬行宮いわせのかりみやに入った。額田ぬかたまた、その行宮で老女帝にお仕えすることになった。旅の疲れが出たのか、筑紫つくしに着いてからの女帝は眼に見えて気心衰え、それが額田には案じられた。都の生活にくらべると、すべてが不自由勝ちであることは仕方なかった。眼に映える山のたたずまいも都の山のそれとは違っていた。春は来ていたが、都の趣はなかった。額田は自分にもそうしたことが感じられるくらいだから、老女帝はどのように都恋しさの気持をお持ちになっているのであろうかと思った。 併ししか、天皇はひと言もそのことを口から出さなかった。建王たけるのみこのことは、朝に夕に思い出して歎き悲しんでいたが、都を遠く離れた現在の生活についてはひと言の不平も述べなかった。皇太子中大兄皇子なかのおおえのみこがこれから全力をもつてその中に入って行こうとしている大事業を思えば、都を遠く離れているぐらいのことが何であろうか、女帝はそう思われているに違いなかった。そうした老女帝が、額田には誰より凛々しく思えた。
額田は時に帝が、二人の皇子のことについて語るのを聞くことがあった。女帝は自分のあと中大兄皇子が即位し、いつかそのあとを大海人皇子おおあまのみこが継ぐものと思い込んでいる風で、半島の経営は中大兄皇子によって新しい段階に入り、大海人皇子にって完成されるだろうというようなことを、老女帝らしい言葉で述べた。
女帝は、また二人の皇子の性格について話すこともあった。どちらが火で、どちらが水であろうか、そういう質問を受けると、額田は返事に困った。
「お二人とも、共に火であり、水でございましょう」
そう答えるより仕方なかった。額田は心の中では、どちらかと言えば、中大兄が火であり、大海人皇子が水ではないかと思っていた。中大兄の火はあらゆるものを焼き尽くし、一物も残さないだろう。それに較べると、大海人皇子の水はあらゆつものをいったんはみ込んでも、いつかまた引いて行くだろうと思う。中大兄皇子のように、すべてのものを跡形なくくしてしまうことはない。
そのいずれが好もしいかということになると、額田は中大兄の方にかれた。
自分もうっかりしていると、跡形ないまでに焼き尽くされてしまいかねないと思った。
併し、額田はその火に対して身を守っていた。筑紫に移ってからも、額田は中大兄の召しを受けた。召しを受ける度に火に焼かれた。体は火に焼かれて灰になったが、その灰の中から焼かれないものが出て来た。心であった。少なくとも額田自身はそう信じていた。
額田は中大兄に対しても、大海人皇子に対したと同じ態度を取っていた。召しを受ければ拒みはしなかったが、併し、いつも中大兄皇子をたしなめることを忘れなかった。
「大海人皇子さまがお気付きになったら大変なことの成ります。もうお目にかかるのは、これ限りにいたしましょう」
「大海人、大海人と言うな、なんじは大海人皇子から堂々と譲り受けている」
「譲り受けているとおっしゃっても、大海人皇子さまは、まさか現在このようなことになっていようとはお思いになってはいらっしゃいませぬ」
「それなら、改めて大海人に汝のことを告げる」
「お告げになるのもよろしゅうございますが、し大海人皇子さまが御不快になるようなことがありましたら、その時はどういたしましょう。皇子さまの一番のお力は大海人皇子さまをおいてはほかございません。これから国の運命をけたお仕事をなさろうと申しますのに」
半島出兵のことを持ち出されると、中大兄はいつも黙った。そしてそれまで額田のことを考えていたのに違いなかったが、それが一瞬にして切り替えられた。
「そう、いかにも、汝どころではない」
汝どころではないという言い方をされても、額田はいやではなかった。自分のことを考えている中大兄より、半島出兵の困難な事業に立ち向かってゆく中大兄の方が魅力があった。
「わたくしのことなど、大体、お考えになりますのが ──」
「いつも考えているわけではない。考えることがなくなった余暇に、汝のことを考える。せいぜい余暇に、汝のことを考える。せいぜい余暇のことだ」
「そうした余暇もお持ちにならぬようになさいませんと」
「たまには、汝のようなものでも欲しくなることがある」
「お妃さまたちがいらっしゃいます。わざわざ遠い都からお引き連れになって来ていらっしゃいます」
「一体、そういう汝は余にとって何者なのだ」
中大兄は、一度はこういう言葉を口から出す。かつての大海人皇子と同じだった。ただ、大海人皇子の場合は、いきなり佩刀はいとうに手がかかった。中大兄皇子の場合は違っていた。じっと額田の眼をのぞき込んで来る。
「一体、汝は何だ」
「皇子さまのおいのち」
「そんないのちはない」
「では、何でありましょう。── 皇子さまのおこころ」
「そんなこころはない」
「おいのちでも、おこころでもないとしたら、一体何でありましょう」
「それは、こちらでくことだ」
「それでは、本当のことを申し上げましょう」
「今までのは、うそだと言うのか」
中大兄皇子は、ここでもまたじっと額田の眼を覗き込んで来る。それには答えないで、
「額田はきっと、皇子さまに神のお声をお告げする巫女みこでございましょう。額田は、そのためにこの世に生をけて来たのでございます。いくらお抱きになっても差し上げられぬものがございます」
「それは何だ」
「皇子さまをお慕いする心です。人間を慕うような心を持ったら、神さまのお声は聞こえなくなります。そうなったら、どうして、皇子さまに神の声をお告げ出来ましょう。おめにあずかった熱田津の歌は、神のお声が皇子さまのお心に宿って生れたものでございます。そうすることの出来たのも、額田が皇子さまをお慕いする心を持たなかったればこそ」
額田は言う。こう言う時は、額田は真剣だった。本当にそう考えていた。自分は神の声を皇子に告げるために生れて来たのである。こう思う時、額田は自分を中大兄の妃たちより優位に置くことが出来た。
2021/05/04
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