~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (1-02)
四月に百済くだらの再興軍の総帥そうすい福信ふくしんより使者が派せられて来た。王子豊璋ほうしょうを何度目かに乞うて来たのである。
五月九日に、老女帝は磐瀬行宮から程遠からぬ地に造られてある粟倉宮にうつった。額田も亦帝に侍して、前の宮より幾らかながめの美しい新しい宮に移った。
併し、この新しい宮殿に移ってから、怪異が次々に起こった。突然殿舎の一角が崩れ落ちたり、王宮の中に鬼火が現れたりした。額田はこの鬼火なるものは見なかったが、鬼火を見たという者は何人かあった。また宮に仕えている近侍の者たちで病にかかる者が多くなり、中には死ぬ者もあった。
流言が飛んだ。この宮殿を造った木材は朝倉社の神体としてまつられてある山から切り出されたものであり、そのために神の怒りに触れたのである。そういうようなことが言われた。実際に神木が行宮の造営に使われているかどうかは不明であったが、怪異が続いていたので、人々はそのようなことがあったものと信じられた。
併し、また別の見方も出来た。殿舎の一部が崩れたのは、故意か過失か知らないが、ちた木材が使われてあったためであり、病が流行するということは、都でも屡々しばしばあることで、筑紫に限った事ではなかった。それに都から来た者たひには、風土の違いもあれば、慣れない土地の生活のための体の弱りもあった。こういう考え方も成り立った。鬼火だけは理屈のつけようはなかったが、実際にそれを見たという者を問い質してみると、そのおにびなるものもはなはだ怪しかった。
こうした鬼火のうわさが行われている最中に、耽羅たんら(済州島さいしゅうとう)は王子阿波伎あわぎを国使として、貢物みつぎものを奉って来た。耽羅の朝貢は初めてのことであった。明らかにこの国の半島出兵の噂が耽羅に伝わり、そのために耽羅がとった措置と見てよかった。耽羅はおのが国が兵火の及ぶ圏内にあるために、万一のことをおもんばかって、大和やまと朝廷によしみを通じて来たのであった。
七月二十四日に、突然容易ならぬ事件は起こった。老女帝が朝倉宮に崩じたのである。誰もが予想していない突然の崩御であった。額田は多年老女帝のそば近く仕えていたので、その打撃は大きく、悲しみは深かった。
併し、老女帝の喪にっても、半島出兵の準備は休みなしに続けられなければならなかった。同じこの月に、唐軍と、唐の支配下にある突厥とけつ(トルコ系の遊牧民族)の軍が、水陸両道より高句麗こうくりの城下に到ったという報があった。新しい展開を見せて、ようやく半島の形勢は重大なものになろうとしていた。
老女帝の崩じた日、中大兄皇子は皇太子のままで、き帝に代わってまつりごとを執ることを天下に布告し、直ちに長津宮にうつった。八月一日、中大兄皇子は天皇の喪の儀に従って、磐瀬宮に赴き、そこで十月七日までの日を過ごした。
半島の出兵は、こうした非常時の最中にも予定を早めて行われなばならなかった。半島の形勢が一日も楽観を許さないので、先発隊として前軍を出動させることにし、前将軍に阿曇比羅夫連あずみのひらふむらじ河辺百枝臣かわべのももえのおみ等の任命があった。併し、指揮者の発表があったのみで、その進発は一日延ばしになっている格好かっこうで、いっこうに出動の命令は下らなかった。
亡き老女帝の喪の儀が終わると、ひつぎは海路大和に帰ることになった。柩を奉じて大和へ帰る役は大海人皇子が受け持った。額田も亦、柩のお供をして、大和へ向かわねばならなかった。
中大兄皇子も同じ船に乗って、途中の港まで柩を送った。いよいよ明日は母帝の柩と別れるという夜、中大兄皇子は亡き母帝をしのんでうたった。
君が目の
こほしきからに
てて居て
かくや恋ひむも
君が目を
皇子の心優しい面の現れた歌であった。母帝にもう一度お目にかかりたいばかりに、柩と同じところに泊っているのであるが、それにしても、こんなにもお目にかかりたいものであろうか。そういう歌の心であった。この歌を示された時、額田はあふれて来る涙をとめることは出来なかった。額田自身の老女帝を慕い、老女帝の死を悲しむ心が、そっくりそのままに詠われているように思われた。
老女帝の柩は、中大兄皇子と別れると、一路難波を目指した。柩の船が難波に着いたのは十月二十三日だった。それから柩は飛鳥あすかの都に入り、飛鳥川原かわらの行宮でもがりした。いっさいのことは大海人皇子の手で取り仕切られた。
2021/05/05
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