~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (2-01)
大海人皇子が筑紫に戻ったのは十二月の初めであった。母帝の遺骸いがいを奉じて筑紫を離れたのは十月の初めであったので、丁度二ヶ月ぶりで大海人は筑紫の地を踏んだわけであった。
筑紫は二か月前とはすっかり街の表情を改めていた。今度の作戦の大本営の所在地として、半島出兵の一大根拠地として、ちまたという巷にはものものしいものが立ちこめ、到るところで兵と物とが渦巻いていた。もはや先帝の喪の悲しみといったものは、街のどこからも感じられなかった。
大海人皇子は中大兄皇子に母帝の飛鳥におけるもがりのこと一切を報告し終わると、すぐ自分を大きく切り替え、目の前に迫っている国運をしての大作戦の帷幄いあくに参じなければならなかった。
大海人皇子は母帝の殯のこと以外、都で見聞きしたいかなることも、中大兄皇子にはには伝えなかった。額田が感じたように、大海人皇子にとっても、飛鳥の都の印象は必ずしも明るいものではなかった。たとえ表面には出ていないにせよ、民の今度の作戦に対する批判は、色々な形において行われていた。夫や息子を兵として徴されている村では、女たちだけが田圃で働いていた。黙々として、すきくわを握っている女たちの背には、はっきりと為政者いせいしゃへの抗議が感じられた。
しかし、筑紫に足を一歩踏み入れたとたんに、大海人皇子の心からは、遠い都の暗さはふっ飛んでしまった。作戦はすでに始まっているのであった。どこへ眼をやってもただ一つの目的に向かって、人は動き、物は動いていた。
筑紫一帯の地に兵は集結していた。無数の兵団は九州の北部にたむろしていたが、それは全国あらゆる地方から集められたものであった。筑紫、肥前などの九州出身の兵はもちろんのこと、四国の兵も、近畿各地の兵も、遠くは東北陸奥みちのくからはるばると徴せられてやって来た兵たちもあった。
従って、筑紫一帯の地では全国あらゆる地方の方言を聞くことが出来た。言葉の違いのために意志が疎通せず、兵と兵、兵団と兵団との小さい争いは毎日のように起こり、あとを断たなかった。
こうした大軍を養うための食糧の確保も容易なことではなかったし、また半島へ出陣した場合の兵糧の問題もあった。筑紫の港には毎日のようにおびただしい数の兵船が出入りしていたが、それの依って運ばれて来るものは兵たちばかりとは限らなかった。あるいは糧秣りょうまつを運んで来る船の方が多かったかも知れない。
また筑紫一帯の海岸に於いて、毎日のようにはげしい水軍の訓練が行われていた。初めて船をいうものに乗る兵たちも多かったが、それをことごとく水軍の兵としてたたき上げて行く必要があった。半島における戦闘の多くが陸で行われるか海で行われるかは見当付かなかったが、しかし、大兵団の移動となると、半島の場合、必ずや海路に依るところが多いであろうと思われた。
水軍の必要とする兵船も夥しいものであった。これは全国到るところで造られていたが、やはり作戦の拠点である筑紫に最も多く船工たちが集められていた。船工たちは今や全く戦闘の最中にあった。夜も昼もなかった。昼も夜もなく立ち働いているのは船工たちばかりではなかった。武器、兵器の工場で一日中、火熱の中にいる男たちも同じだった。
大海人皇子の眼には、二ヶ月ぶりに見る中大兄皇子の顔はかつてない烈しく鋭いものに見えた。
母帝亡き現在、依然として皇太子の地位にあるとは言え、名実ともに国の責任者であった。これまでは母帝の蔭に隠れて一切を取り仕切っていたが、現在は違っていた。この気鋭の若い皇子をかばう何ものもなかった。まさに中大兄皇子の意志に依って半島に出兵しようとしていたし、中大兄皇子の意志に依って、大唐国と事を構えようとしていた。また中大兄皇子の意志に依って、民の生活を犠牲にしてまでも、国の運命を半島の出兵に賭けようとしていた。
2021/05/11
Next