~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (2-02)
大海人には、ただ烈しく見えた中大兄皇子の顔は、額田にはもっと複雑なものに見えた。烈しく精悍せいかんではあったが、ただそれだけではなかった。運命というものに自分を任せてしまった人の静けさもあった。
「毎日毎日がお忙しいので、少しおせになったかと存じます」
額田が言うと、
「まだまだ痩せるだろう。いまに大海人も痩せ、鎌足も痩せる。額田も痩せるかも知れぬ」
中大兄皇子は言った。自分も痩せるかも知れぬと言われると、額田は、そういう言い方に感動した。実際にこの若い為政者の肩にかかっている重荷の何分の一かでも自分の肩に移すことが出来たら、どんなにいいだろうと思った。そして、そのために痩せることが出来たら! しかし、そういうことは夢にもめなかった。一切のことは、額田などの思いも寄らぬところで動いていた。
「額田は女として生れたことが残念でございます。もし男として生れたおりましたら、兵として半島に派せられる御戦みいくさの船に乗れましたものを」
額田は言った。すると、中大兄皇子は笑って、
「さぞ、役に立たぬ弱い兵ができたことであろう。額田に男として生まれられなくて、わが軍はしあわせであった」
それから、すぐ真顔になって、
「額田にはしてもらわねばならぬことがある。半島の作戦が成功した暁に ──」
「御戦が輝かしい勝利を占めました暁 ──」
額田が復唱するように言うと、
「その時は、戦捷せんしょうの歌を、戦捷のよろこびをうたって貰いたい。それを今から心がけておいて貰いたいのだ」
額田は黙って頭を下げた。大きい感動があふれて来て、すぐには言葉が出なかった。中大兄皇子の言葉で初めて気付いたのであるが、そのためにこそ、自分はこの世に生れて来たのかも知れない。どうしてこのようなことに今まで気付かなかったのであろうか。
“熱田津に船乗りせむと”と詠った時の、あのたぎりたつ思いが、再びいまの額田の心によみがえって来た。ああ、自分は中大兄皇子に代わって、その戦捷のよろこびを詠うことが出来たら! しかし、それは誰に出来なくても、自分には出来るのだ。
「皇子さまの御心の中に入り、戦捷のよろこびを、──」
額田は一語一語切るようにして、ゆっくりと言いかけると、
「中大兄皇子の心の中には入らなくてもいい」
「え!?」
額田はおもてを上げて、中大兄の眼を見入った。
「その時は、民全体の心の中に入って詠って貰いたい。長い苦しい生活だった。父もうしなった、夫も喪った、子も喪った。だが、ようやくにして、この大捷利を収めることが出来た。苦しい生活だったが、今になって考えると、やはり無駄ではなかったのだ。半島の先頭において、このような輝かしい捷利を収めることが出来たのだ。漸くにして、いま国土には春が来、春の光が降り、春の風が吹いている」
「───」
「民の心全部に代わって詠って貰いたい。よもや、それが出来にことはあるまい」
「───」
中大兄は、熱田津の出陣の歌だけで充分だ。中大兄は出陣を令した。船団は半島に向かって、次々に発進して行く。── だが、そうして始まった作戦の結果は民のものだ。半島において輝かしい捷利を得たら、その時の悦びは、民の心で詠って貰わねばならぬだろう」
中大兄は言うと、もうそのことはそれだけで打ち切ってしまったかのように、つと席を立った。
額田は立って行く中大兄の顔を見なかったが、皇子が今必ずしも明るい顔をしているとは思われなかった。もしかしたら、戦捷という較べるもののないほど明るいものに思いをせていただけに、その面は反対に暗いもので包まれていたのではないかと思った。何と言うことなしに、そのような気がしたのである。
額田は中大兄の言うように、自分が国民全体の心になり代わって、戦捷の歌を詠えるかどうか、全くわからなかった。その時になってみないと判らないことであった。が、この時の中大兄皇子の言葉ほど、額田の心を根底から大きく揺り動かしたものはなかった。出来るかどうか判らないが、出来るなら、そうすべきだと思った。それは、額田が今まで考えてみたことがなかったほど大きい歌の生命であった。
中大兄皇子の心の中に入って、中大兄の心を詠うことは出来た。誰が出来なくても、自分だけには出来るのだ。神の声を聞く耳を失わない限り、皇子の心の中にぴたりと寄り添うことが出来る筈である。
しかし、この広い国土のあらゆるところに散らばり生きている無数の民の心の中に、どうして自分は入って行くことが出来るだろう。思ってみただけでも至難な業であり、そうすることの手がかりというものは一切考えられなかった。しかし、もしそうすることが出来たら何というすばらしいことであろう。
中大兄皇子は、それをせと、自分に課したのだ。確かに現在の中大兄皇子が夢み、念願しているものは、そのような大きな国土全体のよろこびであるに違いなかった。
額田は飛鳥の都から受けた暗い印象を思い出した。聡明そうめいな中大兄は、飛鳥の都を自分の眼に収めなくても、現在の都がどのような空気に包まれているか、とうに知っているこよであろう。その暗い都に春の光が降り、春の風が吹く日の来るまで、為政者として、あらゆる苦しさに耐えようとしているのである。
それから数日後、額田は行宮かりみやの一隅で中大兄皇子と顔を合わせた時、
「先日の戦捷の歌のこと、額田の生き甲斐がいでございます。今からそれを思っても、身内にたぎり立って来るものがございます」
額田は言った。このことについて、一度、はっきりと自分の感動を伝えておきたい気持があったからである。そして続けて言った。
「草という草、樹木という樹木、みな御戦の捷報に、いっせいに揺れ動き、潮は騒ぎ、山の獣も、虫けらも、生命あるものは尽く、美しい都を指し上って参りましょう。都には、──」
すると、
「その時は、もう、都には鬼火のうわさもなくなっているであろう」
中大兄はさもおかしそうに笑って言った。
2021/05/12
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