大海人皇子が二ヶ月筑紫を留守にしている間に起こった色々な事件の中で、最も大きいものは、何回も
百済の再興軍からその帰国を請われている王子豊璋ほうしょうが、戦火の国へ赴おもむくことに決定したことであった。豊璋は何となく人質のような格好かっこうで永年わが国に留まっていたのであるが、母国存亡の重大事に際して、母国へ赴くことは、誰の眼にも当然な事として映った。再興軍は豊璋を迎えて、王として戴いただき、そのもとに結集して、百済国の再興を図りたいというのも無理もないことだったし、豊璋としても、同じ思いであったに違いない。それを大和朝廷が今日まで引き伸ばしていたのは、豊璋の帰国を無駄にしたくないためであった。
百済の王子豊璋が、帰国のことが決まって、宮中に於いて、織冠を授けられたのは九月のことである。授けられたのは織冠ばかりではなかった。妻として多臣蔣敷おおのおみこもしきの妹も授かった。
若き王子は生まれつき無表情な面貌めんぼうを具そなえていたが、この時も、嬉うれしいか、嬉しくないか、その面からは窺うかがえなかった。豊璋は危機存亡の故国に、その責任者として、その国王として赴こうとしていた。豊璋を待っているものは、半島における烈はげしいい戦闘であった。
中大兄皇子は豊璋に五千余の兵をつけることにした。この豊璋の帰国が決定する一ヶ月前に、半島への最初の出兵があったが、それは公の発表とは違って、小規模のものであった。従って、こんどの豊璋の帰国に際しての出兵が、最初の大々的な兵団の渡海であると言うことが出来た。
しかし、これも、公の発表があってから、徒いたずらに日は延びていた。秋は次第に深まって行ったが、兵団は港附近に待機したままであった。
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2021/05/12 |
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