~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (2-04)
十二月の終りに、高句麗こうくりからの使者が筑紫の港に入った。
── 十二月にないりましてから、高句麗はかつてない烈しい寒さに襲われております。大河という大河はことごとく凍結し、ためにそれまで高句麗軍にい止められておりました唐と突厥とけつの連合軍は、凍結した江を渡って攻め込んでまいりました。大小の戦車を先に立て、鉦鼓しょうこを鳴らして進撃して来るさまは、この世のものとも思われず、戦車の響き、鉦鼓の声は、数百里離れた地点でもこれを聞くことが出来ました。これに対し、高句麗の兵たちは出でて戦い、各所に激戦を展開、唐の二塁を抜きました。そして更に残っている二さいに対して、夜襲を準備しました。唐兵たちは高句麗軍の夜襲をおそれ、みなひざを抱えて泣く有様であります。しかし、高句麗の軍も疲労はなはだしく、戦意を失っている敵の二塞を抜くことは むずかしく、それを差し控えている現状であります。
高句麗の使者は言った。その席には、中大兄皇子も、大海人皇子も、鎌足も居た。使者の報告には、偽りあろうとは思えなかった。未曾有みぞうの寒気に襲われている戦線の様が眼に見えるようであった。しかし、寒さに対しては、高句麗軍の方が強い筈であった。もし冬期の戦闘でなかったら、恐らく高句麗軍は、唐、突厥の連合軍の敵ではないだろう。ひとたまりもなく、重装備を持った敵の大軍に呑み込まれてしまうこと必定ひつじょうである。それを曲がりなりにも持ちこたえ、二塁を抜くといったような有利な常態に戦局を持って行けるのは寒さのお蔭であった。
夜襲を差し控えているといった使者の報告が、大和朝廷の指導者たちには残念に思われた。どんな犠牲を払っても、高句麗軍はこの期を逸すべきではなかった。戦闘の苦しさはどちらも同じであった。
「冬が終り、寒さが少しでも薄らいだら、敵は奪われた二塁をも奪還するであろうに」
鎌足は言った。中大兄にしても、大海人にしても、思いは同じであった。高句麗の軍の指揮者たちのやり方が歯がゆく思われた。しかし、戦線を遠く離れている以上、どうすることも出来なかった。
高句麗の使者が筑紫にやって来た主な目的は、言うまでもなく、一日も早く日本軍の来援を乞うことにあった。百済の王子豊璋に五千の兵をつけて半島へ送り込む準備は既に出来ていた。いつでも発遣出来るように、兵団は筑紫の港に待機していた。ただ、その発遣を延ばしている理由は、もっぱら百済の食糧事情にあった。百済の再興軍が、大量の来援部隊を受け入れる準備が整っているという確かな見通しを得るまでは、簡単に兵団を半島に送り込むわけには行かなかった。百済の再興軍は、ただひたすら来援を求むるに急であったが、大和朝廷としては、その要求を鵜呑うのみみにするわけには行かなかったのである。
しかし、こんどの高句麗の使者の報告は、大和朝廷の指導者たちの考え方を一変させた。多少無理はあった裾、やはり兵団を半島に送り込んでおいた方が、大局から見ると有利ではないかという考えになったのである。少なくとも、現在高句麗が犯しているような愚かな間違いは起こらないに違いなかった。
豊璋と、それを護衛する五千の兵団が筑紫の港を発したのは十二月の下旬であった。。指揮者は、八月から待機していた阿曇比羅夫あずみのひらふ河辺百枝かわべのももえらである。大和朝廷としては最初の大々的な兵団の発遣であった。
その日、筑紫の港は出陣部隊を送るおびただしい数の兵たちで埋まった。見送りの ほとんど全部が他部隊の兵たちであった。兵たちは、やがて自分たちも半島へ出陣することになるであろうが、自分たちに先立って今日出陣して行く先発隊を送るために、港附近に引率されて来た連中であった。
民間の男女たちは港附近への立ち入りは許されなかった。港附近は兵たちで埋められ、男女が入り込む余地はなかったのである。
2021/05/12
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