~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (2-05)
大量の見送りの兵を港に集めたのは、鎌足の指令に依るものであった。出陣して行く兵たちとしては、自分たちに続いて出陣して来るに違いない雲霞うんがの如き後続部隊を目にして、何より力強いものを感じたであろうし、見送りの兵たちとしては、港を埋めるたくさんの軍船を見て、これまた力強いものを感じ、新たに出陣の覚悟のほどを決めるに違いなかった。実際に、この日の港には、いつこのような 軍船が造られたのかと思うほどたくさんの軍船が浮かび、それが歓呼のどとめきに送られながら、一艘ずつ港を出て行った。
そして出動部隊が居なくなって、急にがらんとした港附近の駐屯地ちゅうとんちには、すぐ新しい部隊が移動して来た。誰の眼にも、それは次に出動して行く兵たちに見えた。兵たち自身も、次に出動して行くのは誰でもない、自分たちだという思いを持った。
筑紫は第一陣の出動の日を境にして、急に色濃い戦時色に塗り替えられた。もはや筑紫は大本営の所在地とか、半島出兵の根拠地とかいった後方的色彩を払し、ここも戦場以外の何ものでもないといった急迫したただならぬものを身につけた。
斉明天皇の七年は、このようなあわただしさで暮れて行った。大月隠おおつごもりの夜、中大兄、大海人、鎌足たちを初めとする百官の朝臣たちは、行宮かりみやの一室に集まり、古い年を送り、新しい年を迎える鐘の音を聞いた。
「いろいろのことがあったな」
中大兄皇子の言葉で、その場に列していた者たちすべてが、いま去り行こうとしている年の、殆ど信じられぬような慌しさを思い出していた。初めて御船が西征の海路に就いたのは正月のことであった。そして筑紫の港に着いたのが三月、故帝が朝倉宮にうつられたのが五月、五月から六月にかけては鬼火の噂、そして七月の女帝の崩御にと続いて行く。後の半年は半島出兵の準備のために、一日一日が、殆ど信じられぬ速さで飛び去ってしまったのである。
「いろいろなことは、古い年より新しい年に、なお多くやって参りましょう」
鎌足は言った。
「新しい年には今ここに列している朝臣も、武臣も、半数以上の者が海を渡ることになりましょう」
「そのようなことになればいいが」
大海人が言うと、
「そのようなことがいいことか、悪いことかわかりません。戦況が好ければもちろんのこと、たとえ戦況が不利の場合でも、みな海を渡る覚悟が肝要かと存じます」
鎌足は言った。
「判っている。戦況が好ければ中大兄皇子に半島に渡っていただく。戦況不利の場合は、この大海人が海を渡る」
「そのお覚悟を聞いて、鎌足安心つかまつりました。皇子お二人をあとに残し、臣等みな海を渡ることが出来ます」
鎌足は頭を下げた。“臣等みな”と鎌足が言ったので、列席の朝臣、武臣みな一緒に頭を下げなければならなかった。武臣たちはみないずれは半島に出陣するといった気構えを持っていたが、朝臣たちの方は必ずしもそうではなかった。朝臣たちはみなこの時、自分たちが飛鳥あすかから難波に移ったように。更にまた難波から筑紫に移ったように、新しい年は筑紫から半島へ移らねばならぬかも知れぬという思いを初めて持った。これまでにも信じられぬようなことは、次々に自分たちを襲っていた。これからも襲うであろう。鎌足が口に出したことで、そうならなかったことはなかった。ああ、いま来ようとしている新しい年は、いま鎌足が言ったように、自分たちにとっては容易ならぬ年になるであろう。いまも妻子とは遠く離れているが、新しい年には、更に更に遠く、いまの何層倍も遠く離れることになるだろう。朝臣たちは鎌足と一緒に頭を下げたあと、それぞれが思い思いの考えを呑み込んだ。
2021/05/12
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