~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-01)
筑紫の大本営は三月に再び兵団を半島に派した。こんどは昨年の暮に百済におもむいた豊璋に布三百端を贈ったのである。
半島との連絡は頻繁ひんぱんに行われていた。同じ三月にも高句麗から使者がやって来た。使者の報告は、久しぶりに明るいものであった。日本の兵団が百済再興軍の拠点である毓留城そるさしに入り、それまで敵軍に断ち切られていた高句麗との連絡を確保したので、戦局は非常に有利に展開しつつある。今まで高句麗南辺の幾つかの城塞じょうさいを攻撃していた唐、新羅の連合軍も、二月には高句麗から兵を引くに到った。そういう使者の報告であった。
大和朝廷の首脳部は、兵団の半島派遣が早くも眼に見える効果をあげたことで、大いに気をよくした。この頃、高句麗の僧で、先年日本に渡来して帰化した道顕どうけんが、やがて高句麗は唐との闘いに破れて、日本に帰属することになろうと予言したことがちまたに伝えられた。道顕は占に依って、そういう判断を下したのであったが、道顕は朝野に多くの信奉者を持っている人物で、この言葉は一般に単なる放言としては受け取られなかった。
高句麗が破れるということは容易ならぬ事であったが、それが日本に帰属するようになるということは、必ずしも悪い事とは言えなかった。
昨年の暮に派遣した兵団からは、その後何の報告もなく、その行動を百済などの使者の口から知るだけであったが、六月に入って、初めて兵団から公式の使者が派せられて来た。兵火の渦巻く現地の生々しい空気を身につけた最初の使者であった。
大将軍阿曇比羅夫連あずみのひらふのむらじは百七十艘の兵船を率いて、豊璋を百済国に送ったが、去る五月漸くにして、豊璋を王位に即ける式典をげることが出来た。またその席で、再興軍の指揮者福信にも冊書と爵禄しゃくろくを与えた。すべては日本派遣軍の将兵の参列のもとに、終始厳粛に行われた。豊璋、福信を初めとして百済の将兵たちも亡びた国が再びここに興ったことで、一人として涕泣ていきゅうせざるはなかった。
こういう使者の報告であった。そしてこの使者の報告を追いかけるようにして、百済から貢物みつぎものを持って使者がやって来た。こうしたことから推しても、半島の戦局は現在一応の小康を得ているようであった。唐・新羅の連合軍と日本・百済の連合軍は、高句麗南辺の戦線で対峙たいじしたまま、お互いに戦機の熟するのを待っている格好かっこうであった。こうした情勢は大和朝廷には、むしろ望ましいことであった。やがて派遣しなければならぬ第二、第三の大兵団の為に、半歳でも一歳でも準備期間が欲しかった。筑紫一帯の地は相変わらず戦時色一色に塗り潰され、到るところで人は動き、物は動いていた。
この年の秋は早くやって来た。去年に較べると、同じ筑紫の秋ながら、幾らかでも落ち着いたものが感じられた。去年の秋は、半島出兵に加うるに先帝の喪で、誰もがただひたすら慌しく過ごしたが、今年は秋の季節の到来を感じるだけのゆとりがあった。
王宮で観月の宴が張られたのは十月であった。日頃、王宮深く垂れ込めて過ごしている中大兄、大海人両皇子の妃たちや、それに仕える大勢の女官たちの無聊ぶりょうを慰めるための催しで、勿論もちろん、朝臣、武臣の姿も見かけられたが、何と言っても、女たちの方が圧倒的に多かった。遠くに海を望める大広間と、そこから廊下、広庭にかけて幾つかの宴席が作られていた。部屋内に坐るなり、廊下に出るなり、広庭の将几しょうぎに腰を降ろすなり、それぞれが思い思いのところに陣どって、月をながめる趣向にしつらえられてあった。
2021/05/13
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