~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-02)
額田女王は初めからこうした隻に出ることに心重いものを感じていた。中大兄皇子の妃たちと顔を合わせるのも、大海人皇子の妃たちと顔を合わせるのも、余り望ましいことではなかった。
大海人皇子との間には十市皇女とおちのひめみこがあり、二人の関係は誰一人知らぬ者はなかったが、いま二人がそうした関係を断っていることもまた、誰一人知らぬ者のない事実であった。一方、中大兄との関係は、世間からどのように見られているか、額田自身にも見当がつかなかった。中大兄とのことは出来るだけ秘密にしており、めったなことでは他人に気付かれることはなかったが、よ言って、女官や侍女たち全部の眼から秘密を守るというわけには行かなかった。王宮内のどこを歩いても女官たちの眼は光っていた。ただ当の二人が表沙汰おもてざたにしていない以上、それを見ても見ぬ振りをして過ごすだけの心得は、すべての女官たちが持っているはずであった。
額田は朝臣たちからも、女官たちからも、他の妃たち同様の礼を以て遇されていた。と言って、それが中大兄のちょうを得ていることからくるものとばかり判定してしまうことは出来なかった。大海人皇子との間に十市皇女をもうけているという一事からでも、額田は充分に特殊な女性として遇されるだけの資格はあった。
また、中大兄と額田の関係が一部に知られていたとしても、それを公に口にする者はないに違いなかった。かつて大海人皇子の妃であり、いま中大兄皇子の妃であるという女性のことは、誰にとっても口にするよりは口にしない方が、無難であるに違いなかった。二人の兄弟の皇子に対する礼儀からしても、これだけは口にすべきでないという考え方が行われるのは、極めて自然でもあり、当然なことでもあった。
従って、額田は自分が世間一般からどのような眼で見られているか、自分ではかいもく見当がつかなかった。第一、大海人皇子すらが、自分をどのように見ているか判らなかった。中大兄皇子との関係を、大海人皇子が知っているかいないかさえ判らなかった。額田はこの一年間、大海人皇子と二人だけで話したことはなかった。そうした機会を持つことを、つとめて避けてもいたが、実際にまたそうした機会はやって来なかったのである。
額田にとって、多くの妃たちや、幼い皇子、皇女たちが一堂に会する観月の宴ほど鬱陶うっとうしいものはなかった。妃たちの無数の視線の矢を思っただけでも、なるべくそこに身を置くのは避けるべきであるとおい気がした。中大兄の妃たちからも、大海人の妃たちからも、身を後宮に置かないで、何をしているか判らぬ女性に対して、いっせいにはげしい矢は放たれる。妃たちそれぞれの間には嫉妬しっともあり、競争もあるであろうが、しかし、ってみれば天下に公にされた妃としての同じ立場であった。額田の場合だけは違っている。二人の皇子の寵を得ているということにも問題はあるし、後宮に身を置いていないということにも問題はあった。
額田はこの観月の宴の前日まで、そこに出席するかしないか、心に決めかねていた。ところが前日になって、十市皇女も養育の当たっている侍女から連絡があって、十市皇女が久しぶりで観月の宴で額田に会うことを楽しみにしていると伝えて来た。この一事で、額田の心は決まったのであった。十市皇女が母である自分に会うことを楽しみにしているというのであれば、いかなることがあっても、十市皇女の期待を裏切るべきではないと思ったのである。
額田が十市皇女の母であり、十市皇女が額田の血を持った皇女であることは、これこそ天下周知の事実であった。にもかかわらず、額田は十市皇女の母としての地位を棄てていた。自分の女としての誇りを守るために、そうすることが必要であったが、果たしてこのことは十市皇女にとって、どのような意味を持つのであろうか。額田はこの問題に対して、はっきりした解答は用意していなかった。自分を生んだ母親がそばに居りながら、母親と無関係に育って行く十市皇女が哀れに思えることがあったし、また反対に、この方が十市皇女の将来を守るためにはいいことなのだと、自分に言い聞かせることもあった。
実際に母親の愛と権勢に守られて育って行く他の皇女たちと、そうしたものとはかかわりなく、孤立無援に育って行く十市皇女と、そのいずれがしあわせであるかということは、いちがいには言えぬ問題であった。母親の持つ愛情と権勢に守られているということは、それだけ多くの敵を持つことであった。少なくとも、ただ一人で王宮の中に育って行く十市皇女には、そうした敵はいな筈であった。全然敵や競争相手がないことはないにしても、他の皇女たちに較べると少ないに違いなかった。
額田は一年に数えるほどしか十市皇女に会っていなかった。それも会うと言えるような会い方ではなかった。何か特別の催しのある席で、遠くから垣間かいま見るといった会い方であった。そうした時、十市皇女はいつも額田には眼もくれなかった。額田が自分の母親であるということを意識しているとは思えぬ態度であった。そうしたことが、やはり額田にはさびしくも思えたし、また反対にほっとする思いもあった。
が、今度の侍女からの連絡は、額田にいっきに母親としての思いを煮えたぎらせるに充分なものであった。額田は観月の宴の前夜を寝苦しく過ごした。十市皇女のいまは十歳に生い育っている姿が何回となく、眠りに入って行けぬ額田のまぶたの上に立ち現れて来た。
2021/05/15
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