~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-03)
額田は観月の宴では、一人だけ離れて、庭の将几に腰を降ろしていた。なるべく目立たぬ場所を選んだつもりであった。すでに中天には月はかかっており、真昼のような月光が広い庭に降っていた。
額田はさっきから十市皇女の姿を探していたが、十市皇女の姿は見えなかった。まだこの宴席に姿を現していないものと思われた。額田は月光を浴びていたが、広間の方からは案外自分が誰であるか判らないであろうと思った。反対に額田の所からは広い広間の方がはっきりと見えていた。広間から縁側にかけて 燭台しょくだいが並んでおり、庭先には篝火かがりびかれている。観月の宴であるから、すべての燈火を消してしまった方が月光が生きるだろうと思われたが、なぜか燈火はあかあかとともされている。あるいは頃合を見計みはからって、燈火を消す趣向であるかも知れなかった。
額田は月の方へ向けている顔を、時折、広間の方へ向けた。月も美しかったが、宴席の方は宴席の方で、なかなか興味深い見ものであった。広く散漫になるべき宴席は、何となく二つに割れていた。中大兄皇子たちの妃は、別段一ヵ所に固まっているというわけではなかったが、広間から縁側の右手へかけて居並んでいた。それに対して、大海人皇子の妃たちは、これも一ヵ所に集まっているというわけではなかったが、左手の縁側から、縁近い庭先の将几へと座をとっていた。
一見すると、中大兄皇子の妃たちの方が上座に陣取っている格好かっこうであり、兄の皇子の後宮であるので、それが当然であるとも思われるが、必ずしもそういうわけでもなかった。むしろ大海人皇子の妃たちの方が、自由に振舞って、のびのびとしたものを、それぞれが身につけていた。この方はまだ若い妃たちが多かったが、若さのためばかりではなかった。大海人皇子の妃である太田皇女、鸕野讃良皇女うののさららのひめみこの二人だけを考えても、二人は中大兄皇子といあまは亡き造媛みやつこひめの間に出来た皇女であり、ってみれば、この宴席に於いて、殊更気を使って遠慮しなければならぬ相手はなかった。二人の皇女にとって、中大兄皇子は父であり、大海人皇子は夫であった。
それにしても、二つの妃たちの集団がこの宴席に出来ていることが、額田の眼には奇異に映った。一つは若やいで明るく、一つはひっそりと静かであった。と言って、中大兄皇子の妃たちが中年の女性ばかりだとは言えなかった。若い妃たちも居た。
額田は大海人皇子の妃たちに、それとなく眼を当てていた。鸕野讃良皇女の姿がひときわ目立っていた。周囲に顧慮することなくのびのびとした動作で動いてるためでもあったが、遠くから見ている限りでは、この夜の催しがこの若い妃を中心に開かれでもしているかのように見えた。姉の太田皇女も美しかったが、妹の皇女の方が一層派手な美しさであった。
この姉妹は皇女の母である造媛は、父の石川麻呂いしかわまろざんによって朝廷からの軍に攻められて自刃した時、悲しみの余り父の跡を追った女性であった。従って、この姉妹の皇女は、母親なくして王宮に生い育ち、今は二人とも大海人皇子の妃となっている。先年八歳で亡くなった建王たけるのみこは二人の皇女の弟である。亡き斉明女帝がいかに建王の死を悲しんだかは、額田の胸に今なお生々しく刻まれている。女帝は母親なくして育った建王に殊更深い愛情を持っておられたのであろう。
額田は鸕野讃良皇女にかず眼を注いでいた。この年、草壁皇子くさかべのみこを出産したが、産後のやつれなど、その体のどこにも感じさせなかった。十八歳の若い妃であった。
額田はこの若く美しい大海人皇子の妃に当てた眼を、どうしてもほかに移すことの出来ぬ事が、自分ながら不思議であった。もしこの時の額田の感情を最も間違いなく名付けることが出来るとしたら、それはやはり嫉妬しっとの感情であったかも知れぬ。大海人皇子に対して、今はいかなる未練も持っていなかったが、それにも拘わらず、その妃に対して、このような感情を持つことが額田自身にもせぬことであった。
やがて中大兄皇子が、続いて鎌足が、やや間を置いて大海人皇子が姿を見せた。二人の皇子と鎌足は、二つの妃の集団の中に、何となく席を占める格好になった。
少し遅れて間人皇女はしひとのひめみこが姿を現したが、間人皇女は、妃たちの二つの集団のいずれにも座をとらず、二人の皇子たちの横に坐った。
女官たちの動きがしげくなった。
額田は相変わらず鸕野皇女に視線を当てていた。鸕野皇女、太田皇女、この二人の妃たちに較べると、同じ大海人皇子の妃ではあるが、鎌足の娘である氷上娘ひかみのいらつめ五百重娘いおえのいらつめの二人は、万事を控え目に処している感じである。さっきから申し合わせでもしたように、縁先に少し斜めに坐って、庭の方へ顔を向けている。この二人の妃もまた若く美しい。双生児ではないかと思われるほどよく似た面輪おもわを持っており、一人が少し身を動かすと、もう一人もまた身を動かしている。一人が庭先を覗き込むようにすると、もう一人もまた同じように身をこなしている。
いずれにしても二人とも、遠くから見ている限りでは、大田、鸕野の二人の妃の蔭に身を置いている感じである。その静かな二人の妃の横にもう二人の女性が坐っている。どちらも額田にとっては目新しい顔であった。大海人皇子の妃たちの一団の中に身を置いている以上、やはり大海人の妃たちと見なければならなかった。噂に聞いていることを真実とすれば、どちらかが蘇我赤兄そがのあかえを父に持ち、どちらかが宍人臣大麻呂ししひとのおみおおまろを父に持っているのであろう。二人とも、他の妃たち同様に若いが、そろって長身で弱々しそうである。さっき立ち上がって、座を移した時、額田は二人のそうした体の特徴を見てとっていた。
2021/05/16
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